頼られる方が気が楽な理由を考えてみた

頼られる方が気が楽な理由を考えてみた

頼られる方が気が楽な理由を考えてみた

誰かに心配されると苦しくなるときがある

「大丈夫?」って聞かれると、なぜか心がざわつく。ありがたい言葉のはずなのに、素直に「ありがとう」と言えない自分がいる。心配してくれる気持ちは分かる。でも、どう返していいのか分からない。特に仕事でしんどいとき、こちらの余裕がなくなっていると、心配の言葉が“上から”のように感じてしまうこともある。相手は悪くない。悪いのは受け取り方がねじれてしまう自分だ。そんなとき、頼られる方がまだ救いになると思うようになった。

ありがたいはずなのに素直に受け取れない

司法書士という仕事は、性質上、ミスが許されない。常に「ちゃんとできているか」と自分に問いかけながら進めている。そんな中で、「心配してます」とか「大丈夫ですか?」と声をかけられると、まるで「ちゃんとできてないですよね?」と言われているような錯覚に陥ることがある。もちろん被害妄想だ。でも、そう感じてしまう心の余裕のなさが、さらに自分を追い込んでいく。

「大丈夫?」の言葉がかえってプレッシャーになる

昔、繁忙期に疲れ切っていたとき、事務員さんに「先生、最近ちょっと元気ないですね…」と心配された。その瞬間、思わず「元気ないように見えます?」と聞き返してしまった自分がいた。自分が崩れていることを見抜かれたような気がして、なんだか恥ずかしくなった。心配されることが、逆に「しっかりしなきゃ」というプレッシャーになってしまう。それならいっそ、何かを頼ってくれた方が自分の気が紛れる気がする。

心配されると自分の弱さに直面させられる

弱っている自分に他人の視線が向くと、逃げたくなる。「心配」という言葉の奥には、「あなたは今、普通じゃない」と無意識の宣告を受けている気がする。これはきっと、自分の弱さと向き合うのが怖いからだ。だから、「頼られる」という状況の方が、むしろ自分の存在意義を感じられて、精神的にも安定する気がする。少しでも役に立っていると思えた方が、弱い自分を誤魔化せるのかもしれない。

頼られると自然と前を向ける不思議

「ちょっとお願いしてもいいですか?」の一言で、どこかで落ちていた気力のスイッチが入ることがある。責任感か見栄か、よく分からないけれど、人に頼られるときって、妙にやる気が湧いてくる。自分のことでは動けないのに、誰かのためとなると少しだけ前向きになれる。そんな自分が面倒であり、でも少しだけ誇らしかったりする。

仕事を任されることでスイッチが入る

最近あったのは、同業の若い先生から登記のチェックを頼まれたとき。「こんな僕に?」と思いながらも、資料に向き合っていると不思議と疲れを感じなかった。たぶん、自分が必要とされていると実感できたからだと思う。そういうときって、なぜか集中力も上がる。自分の仕事以上に、誰かの役に立てる仕事の方が楽に感じるときすらある。

誰かのためならまだ頑張れる気がする

自分のためだけに頑張るのって、実はすごく難しい。動機が弱い。でも、事務員さんや依頼者さんのためだったら、どこかで自分を動かせる。「この人が困ってるから、ちょっと動こう」それだけの理由でも、立ち上がれる日がある。そういう瞬間に救われてること、実は多い。

元野球部だった頃のポジション意識

高校時代、僕は野球部でキャッチャーをしていた。地味だけど、信頼されなきゃ務まらないポジションだ。ピッチャーからサインを託され、チームの要として見られるあの感覚は、今でも仕事に通じていると思う。信頼されて、そこに応えることが自分の原動力になる。それが身についているのかもしれない。

事務員さんに頼られた日の小さな充実感

ある日、事務員さんに「これ、私じゃ判断つかないので先生お願いできますか?」と言われた。普段は雑務に追われているけれど、その一言で「まだ自分も役に立てるんだな」と思えた。何気ないやり取りの中にも、頼られることで得られる充実感は確かにある。これがあるから、毎日踏ん張れている気もする。

頼られる側もけっこうしんどいけど

頼られることが常に心地いいとは限らない。プレッシャーもあるし、負担に感じるときもある。それでも、心配されるよりは気が楽だと思うのは、きっと自分が「弱く見られたくない」という思いに縛られているからだ。頼られることで、自分を保っているのかもしれない。

プレッシャーや責任感で押し潰されそうな日もある

何でもかんでも任されると、正直つらい。僕ひとりじゃ回しきれない案件もある。でも、「無理です」と言えない性格だから、つい引き受けてしまう。その結果、夜中に一人で書類と向き合いながら、「これ…誰が頼んだ?」と自問自答する羽目になる。頼られるのも、ほどほどがありがたい。

「頼りにされる=便利屋」に思えてくる瞬間

ときどき、「あれ?これ、ただの都合のいい人じゃないか?」と思うことがある。依頼者や関係者から「とりあえず稲垣さんに聞けばいい」みたいな空気を感じたとき、ちょっと悲しくなる。でも、それでも頼られているうちは、まだ居場所があるのかもしれないと思ってしまう自分もいる。面倒な性格だ。

でも逃げ出したくないのはなぜか

こんなに大変なのに、なぜか「もうやめたい」とは思わない。どこかで、自分の存在を認めてもらえる瞬間があるからだと思う。小さな「ありがとう」とか、事務員さんの「助かりました」の一言が、踏ん張る力になる。頼られることで、孤独な自営業に少しだけ光が射す気がするのだ。

心配されるときと頼られるときの違い

この二つの間には、似ているようで決定的な違いがある。どちらも“他者の関わり”ではあるけれど、心に残るのは「頼られたとき」の方が多い。理由は単純で、自分が“動く側”になれるからだと思う。心配されるときは、完全に受け身で、自分の不安がさらに浮き彫りになる。それがしんどい。

受け身と能動の精神的な差

心配されるときって、「あなた、大丈夫じゃないよね」という前提で関わられる感じがある。こちらはただうなずくしかない。でも、頼られるときは、自分の力が前提になっているから、自分で何かを“する側”になれる。その違いが精神的な余裕につながる。受け身よりも、能動の方が心が安定する気がする。

心配される側はいつも守られる側

守られる側にいると、なぜか「守られっぱなしで情けないな」と感じてしまう。甘えることが下手な性格もあるけれど、自立していたい気持ちが強いからだろう。だから、「大丈夫?」と声をかけられると、逆に「大丈夫じゃないように見えたか…」と気落ちしてしまう。

頼られる側は戦力として見られる

頼られるときは、「この人ならやってくれる」という前提で見られている。つまり、戦力として計算されている感覚がある。それが嬉しい。小さな自営業だけれど、自分が誰かの役に立てていると実感できる場面は、なによりの報酬になる。お金よりも、そっちの方が心に響く。

存在価値を感じられるのは後者だった

「大丈夫?」より「お願いできますか?」の方が、自分の存在価値を感じられる。頼られることで、立っていられる。そう気づいてから、自分の中で何かが少しだけ楽になった気がする。たぶん、これが僕にとっての「気が楽な理由」なんだと思う。

「頼られたい」の裏にある本音

きっと、誰かに頼られたいという気持ちの裏には、認められたいという本音があるんだと思う。モテたいとか、目立ちたいとか、そういうことではなく、「ここにいていい」と思いたいだけ。自営業って、結構孤独だから。誰かの役に立っているという実感が、心の支えになる。

ほんとは認められたいだけなのかもしれない

誰かに頼られるたび、「お、俺もまだやれるな」と思う。逆に、何日も誰からも頼られない日が続くと、「もしかして俺、いらないのでは…」と不安になる。本当は誰かに認めてもらいたいだけなんだと思う。でもそれを自分で言うのは恥ずかしいから、つい「頼られた方が気が楽だ」なんて言い方をしてごまかしている。

一人でも大丈夫な顔をして生きる癖

長年独身で、自営業で、何でも自分で決めてきた。だから「一人でも平気です」という顔をして生きるのが癖になっている。でも本音は、「誰かと一緒にいたい」「誰かに必要とされたい」。その気持ちを言葉にできないまま、ただ書類と向き合って毎日が過ぎていく。

けっこう寂しい生き方してるなと思うとき

夜の帰り道、事務所の明かりをひとりで消して歩くとき、ふと「俺、何してんだろ」と思う瞬間がある。あのとき、「頼られてるから頑張れてるんだ」と心の中でつぶやく。そうやって、自分をごまかしながら、今日もなんとか生きている。頼られることに救われているのは、きっと僕の方なんだと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓