手続きは進むが心は置き去りのまま

手続きは進むが心は置き去りのまま

誰よりも早く登記が終わる日々に

司法書士としての仕事は「早くて正確」が正義だと思ってきた。登記申請も電子化が進み、処理スピードも上がった。依頼者の笑顔や「助かりました」という言葉に支えられて、今日もまた淡々と事務作業をこなしている。でもふとした瞬間に、「これでいいのか」と思う自分がいる。仕事はこなせばこなすほど、逆に自分の心の距離感が浮き彫りになるのだ。

依頼者は満足して帰るけれど

書類を渡し、手続きが完了したと伝えると、依頼者は安堵の表情を浮かべて帰っていく。問題が解決し、肩の荷が下りたような顔を見ると、こちらも少しホッとする。でも、そのあと事務所に残るのは静まり返った空間と、片付けられた机の上の書類だけ。依頼者の安心と引き換えに、自分の中にはぽっかりと穴が開いたような気持ちが残る。

机に残る書類と心の空洞

提出済みの書類ファイルが積み上がるたび、仕事は進んでいるはずなのに、なぜか達成感は薄い。紙の上では完璧に処理されたはずの案件も、心には何も残らない。「俺、今日なにか大事なことやったっけ?」とふとつぶやいてしまうほど、感情が置き去りにされたまま仕事が終わっていく。

今日も「ありがとうございました」と言えたけれど

感謝の言葉を交わすたびに、自分の中の感情も動いているはずだと信じたい。でも「ありがとうございました」と言った瞬間に感じるのは、どこか他人行儀な虚無感だった。まるで自動販売機のように感謝を出力するだけで、自分の心がそこにない。そんな日々が積み重なっている。

仕事は回るけど気持ちは止まっている

依頼を受け、処理をして、報酬を受け取る。そのルーティンは確かに安定している。だけど、心はずっと同じ場所に立ち尽くしている。昔は「忙しければ寂しさなんて感じない」と思っていたけれど、今は忙しさがむしろ寂しさを際立たせる。仕事の波に乗っているはずなのに、岸には一向にたどり着けない気分だ。

忙しさでごまかす孤独

朝から晩までスケジュールが埋まっていると、確かに寂しさを感じる暇はない。だけどその実、内側に溜まったものが消えているわけじゃない。夜になって仕事が終わると、一気に押し寄せてくる孤独の波。誰かと話したい気持ちはあるのに、連絡先に思い浮かぶ相手がいない。そんな自分がますます情けなく感じる。

事務所に響くのはキーボードの音だけ

日中は事務員さんがいてくれるけど、夕方には彼女も帰っていく。そこからは、キーボードを打つ音と時計の針の音だけが事務所に響く。音があるのに、静かすぎる空間。まるで自分の人生の空白を可視化してくれているようで、たまにその音すら耐えられなくなることがある。

「充実」と「空虚」は紙一重

一見すると充実している毎日。予定は詰まり、処理件数も増えている。でも、自分の内面は空っぽに近づいている。「仕事があることに感謝しなきゃ」と思いながらも、どこかで「このままでいいのか」とつぶやいている。人に見せる顔と、本音のギャップが、年々大きくなっているのを感じる。

事務員さんの笑顔に救われるけど

雇っている事務員さんの存在は本当にありがたい。忙しい中でも穏やかに対応してくれる彼女に、どれほど助けられているかわからない。とはいえ、彼女に気を遣わせすぎないようにと、自分の感情を抑える場面も多い。助けられている反面、気疲れすることもあるのが本音だ。

優しさと気遣いのバランスに悩む

人を雇うって、想像以上に神経を使う。感謝はしている、でもそれを表現しすぎると距離感が崩れる。逆に、ドライになりすぎると冷たい印象を与えてしまう。そのバランスを取るのがとても難しい。気を遣いすぎて、自分がどこか窮屈になっていることにも気づいている。

雇う責任と感謝と気疲れ

彼女の生活を支える一部になっているという責任感。仕事を振るたびに「これでよかったかな」と迷い、「ありがとう」と言いながらも内心では「もっと自分でやるべきだったかな」と反省する。自分の優しさが、時に自分自身を追い込んでいる気がしてならない。

一人じゃないけど、孤独は消えない

確かに一人じゃない。でも、それが孤独の解消になるわけじゃない。事務所にもう一人いるという事実と、自分の心に巣食う孤独感とは別物なのだ。人とのつながりはあっても、心がつながっていなければ意味がない。そのことに気づいたとき、いっそう孤独が深まった気がした。

昔の仲間は家庭を築いている

久しぶりに高校時代の野球部仲間のグループLINEを開くと、誰もが家庭を持ち、子どもが成長している話題で盛り上がっている。そんな中に、自分だけが独り身で、仕事の話しかできない現実がある。既読だけしてそっと閉じる画面。そのたびに、人生の流れから取り残されているような感覚に襲われる。

野球部時代のLINEグループがしんどい

かつては一緒に汗を流していた仲間たち。試合で打てなかった夜に慰め合い、笑い合った日々。それなのに今は、「お子さん、七五三おめでとう」と送るだけの関係になった。「今度飲もうよ」とメッセージが来ても、それが社交辞令だとわかっているから、返信する気力も湧かない。自分だけが進んでいないような気がして、ますます距離ができていく。

「今度遊ぼう」って社交辞令ですよね

社交辞令だとわかっていても、「誘ってくれるだけありがたい」と思う気持ちもある。でも実際は予定が合わず、そのまま会わずに時間が経つことばかり。「遊ぼう」と言われるたびに、心の奥にある「本当に自分と会いたいと思ってくれてるのか?」という疑問が浮かび、素直に喜べなくなっている。

子どもの写真が辛いときもある

仲間たちがグループに送る子どもの写真。「かわいいな」と思う反面、「俺は何をしてるんだろう」と無性に悲しくなる。自分には守るべき家族も、見せびらかすような幸せもない。ただ、書類とにらめっこする日々。それでも「そんな人生もある」と自分を納得させて、また今日も仕事に向かう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓