人生に完了確認書が欲しくなる日もある

人生に完了確認書が欲しくなる日もある

人生に完了確認書が欲しくなる日もある

終わったはずの仕事が頭から離れない

書類も出した、登記も終わった、依頼者にも報告した。にもかかわらず、夜になると「本当にこれでよかったのか」と頭をよぎることがある。司法書士として、日々たくさんの書類と向き合い、期限に追われ、依頼者の不安も抱えて生きている。でも、自分の中では「終わった感」がないことが多い。人生のタスクにも、あの「完了確認書」みたいなものがあればいいのに、と本気で思う夜がある。

なぜか夜になっても心が休まらない

家に帰っても、テレビの音がただの雑音に聞こえる。仕事が終わっているのに、心は終わっていない。あの登記に誤りはなかったか、依頼者の意図は本当にくみ取れていたのか。こういうモヤモヤを持ったまま布団に入っても、眠りは浅い。夢の中でも申請書を修正していたこともある。休日に山道を歩いていて、ふと「あの物件、仮登記だったっけ?」とよみがえる瞬間もあるのだ。

完了のサインがあっても安心できない

書面上では完了。法務局の受付印も押され、手続きは終わっている。それでも、心のどこかで「見落としてるかも」という感覚が消えない。たとえば、自動車の運転中に「鍵かけたっけ?」と思ってUターンするような感覚に近いかもしれない。小さな不安が積もると、大きな疲労になる。結局、安心というものは「証明」ではなく「納得」なのかもしれない。

あれでよかったのかが消えない性格

若い頃から、野球部でも「もっと走れたかも」「あと一本打てたかも」と、納得しないまま終わることが多かった。自分の性格の問題なのかもしれないが、「これでいい」と思えない。司法書士になってからもそれは変わらず、どんなに周りに評価されても、自分の中では「未完了」のラベルが貼られている。そういう気質も仕事の精度に繋がってはいるのだろうけれど、しんどいときもある。

業務だけじゃない不安の連鎖

不安を感じるのは業務だけに限らない。ときには、依頼者との会話の中で「うまく言えなかったな」とか「もう少し寄り添えたかも」と悩むこともある。書類の完成度は高くても、人間としてのやりとりに不完全さを感じてしまうのだ。結局、「完了確認書」がないのは仕事ではなく、自分の心の中なのかもしれない。

人間関係のやり残し感もついてくる

事務員とのやりとり一つとってもそうだ。「おつかれさま」と言ったつもりが、なんだか素っ気なく聞こえた気がして後から後悔する。依頼者に対しても、「もっと話を聞けばよかった」とか、「あの時の表情は何を意味していたんだろう」と考えてしまうことがある。形式的な「完了」ではなく、気持ちの区切りがつけられないまま、次の案件へと進んでいく。

自分に対するダメ出しが一番キツい

誰かに叱られるより、自分で自分にダメ出しするほうが辛い。「またやってしまった」「今回も手応えがない」。自己肯定感が低いのか、あるいは完璧主義なのか。そんなことを考えていると、まるで終わりのない反省会を一人で開いているような気分になる。誰かが「もう十分だよ」と言ってくれるだけで救われるのに、それを言ってくれる人がいないという現実が、また苦い。

自分にだけ届かない完了確認書

誰かの仕事を終えたとき、依頼者から「ありがとうございました」と言われる。その瞬間、書類上ではすべてが完了している。でも、自分の心には確認書が届かない。なんでこんなに不安なのか。なんでこんなに手応えがないのか。司法書士という職業柄、きっちり終わらせて当然という感覚がある分、「完了した気がしない」が日常になってしまっている。

他人はどんどん区切りをつけていく

SNSでは「退職しました」「結婚しました」と人生に見出しをつけていく人がいる。まるでWordの見出しスタイルを更新するかのように、はっきりとページを区切っていく。一方、自分は淡々と同じような日々を過ごし、誰かに告げるような出来事もない。ただの地続きの毎日。誤字脱字のない文書を出すことに全力を注いでいる間に、人生のアウトラインはぼやけていった気がする。

書類には完了と書けても気持ちは別

申請書に「完了」と記すのは簡単だ。でも、自分の人生に対して「終わった」と言えることがどれだけあるだろう。たとえば、大学時代の恋愛も、仲の良かった友人との別れも、はっきり「終わった」と認識してないまま、ただ過ぎていった。「完了」よりも「放置」に近いものばかりで、振り返ってみてもスッキリしない。だからこそ、人生にも完了確認書が欲しくなるのだ。

司法書士という職業の性

職業柄、「不備があってはならない」というプレッシャーが常にある。だからこそ、手続きが終わっても「本当に問題なかったか」という不安がつきまとう。書類は見事に整っていても、人の気持ちはそう簡単に整理できない。ましてや自分自身の気持ちなんて、もっと複雑だ。司法書士である前に、ひとりの不器用な人間なのだと、最近ようやく受け入れられるようになってきた。

責任感と不安感は紙一重

責任感があるからこそ不安も強くなる。ちょっとした間違いが大きな損害につながる世界にいるからこそ、自分を追い込みすぎてしまう。「あれでよかったのか」と何度も問い直すのは、依頼者のためというより、自分を守るためなのかもしれない。だけど、それにしてももう少し「終わった感」が欲しい。完了確認書があれば、それにハンコを押して、堂々と寝られるのに。

人の人生に関わる重さに慣れない

登記や相続、成年後見――どれも人の人生に深く関わる手続きばかりだ。だから、どんなに経験を積んでも「慣れる」ことがない。むしろ年を重ねるほどに、その重さが身にしみてくる。軽い気持ちでは仕事ができないし、だからこそ、毎回全力で向き合う。でも、その分だけ疲れるし、自分の感情の整理が追いつかなくなる。その積み重ねが「完了の欠落感」なのかもしれない。

どうすれば終わったと思えるのか

この問いに、明確な答えはないのかもしれない。だけど、最近思うのは、「誰かに完了を認めてもらいたい」という気持ちが、根底にあるような気がしている。たとえば、子どもの頃に先生に「よくできました」と言ってもらえたように、人生にもそういう存在がいれば、もう少し楽に生きられるんじゃないかと、ふと思うことがある。

誰かに認めてもらいたいだけなのかもしれない

完了確認書が欲しいのは、実は確認そのものではなく、「ちゃんとやったよね」と誰かに言ってほしいだけなのかもしれない。事務所では誰もそんなこと言ってくれないし、自分自身も自分を褒めることが苦手だ。だからいつも、完了感を求めてぐるぐる考えてしまう。もし「おつかれさま」と一言くれる人がいたら、それだけで肩の荷がすっと降りるのに。

承認欲求と孤独のはざまで揺れる夜

認められたい。でも、誰にも頼れない。そんな思いを抱えて、事務所の片隅で缶コーヒーを飲む夜がある。SNSで「おつかれさま」と言われても、空虚に感じる。たぶん、ただ誰かと笑って「今日も終わったね」と言いたいだけなんだと思う。でも現実には、誰とも会話をせず一日が終わることもある。そういう夜に限って、「完了確認書」の不在がこたえる。

心の中の送信ボタンが押せない

書類の「送信」ボタンは押せても、自分の心の送信ボタンはなかなか押せない。どこかでためらってしまう。本当にこれでよかったのか、もっとできたことはなかったのか。終わりにできるのは、けっきょく自分自身しかいない。でも、自分がいちばん厳しい審査官なのだから困ったものだ。

完了に自分でOKを出す練習が必要かも

最近思うのは、「自分でOKを出す練習」をしたほうがいいということ。たとえば、仕事が一区切りついたら「よし終わった」と声に出してみるとか、小さなことでも「今日はこれで十分」と手帳に書いてみるとか。自分に対しても完了確認書を出すような感覚で、小さな満足を積み重ねていくこと。それが、自分を少しだけ軽くする手段なのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓