気づけば誰とも登記していなかった
登記簿の中で人の人生が動いているのを、僕は毎日見ている。所有権が移転したり、抵当権が設定されたり、離婚して苗字が変わったり。そんな書類を淡々と処理しているけれど、ふと我に返ると、自分の人生には何も記録されていないことに気づく。結婚も、離婚も、子どももいない。登記簿的には「変化なし」だ。そんな自分を見つめるとき、虚無が押し寄せてくる。
周囲はとっくに家庭を築いていた
同級生のFacebookを久しぶりに覗いてみた。子どもの運動会、七五三、家族旅行。画面越しに見るそれらの写真は、まるで別世界の話のようだった。中学の野球部で一緒に汗を流していたあいつも、今ではすっかり二児の父。「人生ちゃんと登記されてるな」なんて、半ば冗談まじりに思ってしまうのは、こっちが未登記のまま時間だけ進んでいるからだろう。
登記は日常でも、自分の人生には登記されない
司法書士として働いていると、「結婚するんです」「家を買いました」という幸せの瞬間に立ち会うこともある。登記の仕事は、実はそういう人生の節目に直結している。でも、それを処理している自分の人生は、どこにも記録されていない。何千件もの登記申請書を見てきたけれど、自分の名前がそこに載る日は果たして来るのだろうか。
「まだ独身なんですか?」の破壊力
一番きついのは、軽い冗談のつもりで放たれるこの言葉だ。親戚の集まり、同業の会合、年賀状のおまけのような一文——「そろそろ良い人いないの?」。悪気がないのは分かっている。分かってはいるけど、毎回胸の奥に何かが刺さる。しかも相手はたいてい、登記済の人生を歩んでいる人たちなのだ。
司法書士だからこそ見えてしまう“制度の外側”
法務局に提出する書類を眺めていると、人の人生が数字と書類に変換されていることを思い知らされる。「この住所に住むことになった」「この人と結婚した」「この不動産を引き継いだ」——それらすべては制度の内側の出来事だ。逆に言えば、制度の外側には名前も記録も残らない現実がある。そう、僕のように。
家族法務の登記依頼に滲む現実
離婚や相続、親権変更の手続きに訪れる人の中には、感情を押し殺しながら話す方も多い。書類上は「単なる手続き」でも、その裏にはドラマがある。時には、長年連れ添ったパートナーとの別れを静かに語る依頼者の姿に、自分の「空白」がより一層浮き彫りになることもある。「せめて名前だけでも誰かと一緒に残したかった」——そんな本音が、胸の奥でつぶやかれる。
他人の幸せの記録を処理する日々
「この登記、急ぎでお願いします」そんな依頼が来るたび、目の前の仕事に集中する。でもふとした瞬間、思うことがある。「この人たちは、ちゃんと関係を築いて、記録に残しているんだな」と。僕はというと、今夜も一人でコンビニのざるそばを食べているだけ。記録に残すまでもない、変化のない日々だ。
事務所の片隅で食べる弁当が今日も冷たい
昼の休憩時間もまともに取れず、事務員さんに申し訳ないと思いながらも、業務は山積みだ。事務所の片隅で冷えた弁当を食べながら、ふと窓の外を見る。陽射しだけがやけに温かい。外では保育園帰りらしき親子連れが笑っている。こっちは弁当も冷たければ、心もあまり温まらない。
温め直す時間もない忙しさの正体
電子レンジにかける3分すら惜しい。そんな毎日だ。事務員さんにも「お昼、取ってくださいね」とは言うが、自分はついPCの前でかきこむ。無意識に「忙しい=頑張っている」みたいな錯覚にすがっているのかもしれない。でも本音では、誰かに「あったかいご飯を食べて」と言ってもらいたいのかもしれない。
結局、誰かの「急ぎ」に押し流される
登記申請には期限がある。法務局は待ってくれない。急ぎの案件、直しの依頼、補正連絡——毎日が締切との戦いだ。クライアントの「至急でお願いします」の一言で、こちらの段取りは簡単に崩れる。でも、それが仕事だからと自分に言い聞かせる。そのうち、自分の人生の優先順位がどこかに消えてしまった。
「ありがとう」より「まだですか?」が多い
感謝されることもある。でもそれより多いのは「まだできませんか?」という催促の言葉。責任感が強いせいか、毎回胃のあたりがキリキリする。これが司法書士という仕事なのか、それとも自分が要領悪いだけなのか。どちらにしても、誰かに感謝される前に、自分自身をもう少し労わるべきなのかもしれない。
人生に必要な契約は登記簿に載らない
どんなに堅牢な契約書を作っても、愛や信頼は記録できない。恋人との関係も、友人との絆も、契約にはできないのだ。登記簿に記載できるのは、目に見えるものだけ。でも人生で本当に大切なのは、案外「見えない契約」だったりする。
名前のない関係に救われたこともあった
若いころ、一度だけ結婚を考えた女性がいた。彼女とは籍を入れることなく別れたけれど、あの時の時間は間違いなく僕の支えだった。名前も記録も残っていないけれど、心の中にだけ残っている契約のようなものだったと思う。そういう「非登記的」な絆も、確かに存在するのだ。
形式だけじゃ人は守れない
登記してあるから安心——そう思いたいのは分かる。でも実際には、形式的な結びつきがあるからといって、関係がうまくいくわけではない。逆に、籍を入れていなくても、深く結ばれている人たちもいる。制度と感情のあいだには、どうしても埋まらない距離がある。
でも形式がなければ不安になるのも本音
理屈ではわかっている。形式じゃない、中身が大事——その通りだ。でも夜、ふとした瞬間に「誰にも記録されていない人生」が無性に不安になる。登記簿の空白が、自分の心の空白と重なることがあるのだ。