うまく話せなくなった自分に気づいた日

うまく話せなくなった自分に気づいた日

言葉が出てこない瞬間に気づいた日常の違和感

つい最近まで、何気ない雑談も苦じゃなかったはずなのに、ふとした会話で言葉が詰まることが増えてきた。話そうと思っても口が開かない。頭の中では言いたいことが渦巻いているのに、いざ言葉にしようとすると喉の奥で引っかかるような感覚。日々の業務の中でも、お客様との応対や電話の受け答えで一瞬戸惑うようになった。自分ではそんなつもりはなくても、相手からすれば「考えながら話している」というより「何か様子がおかしい」と映っているかもしれない。そんな違和感が、じわじわと心をむしばんでいく。

あれ なんて言うんだっけと思うことが増えた

最近では、たとえば登記の説明をしているときに「あれ、なんて言うんだっけな」となる場面がある。日常業務で使い慣れていた専門用語が、喉元まで出てきているのに形にならない。かつてはすらすら説明できていたはずなのに、まるで別人のような感覚。事務員に説明しているときも、言葉に詰まって「あ、ちょっと待って」と言い直すことが多くなった。本人は焦っているが、周囲には伝わらないこのもどかしさが、さらに自信を削っていく。

名前が出てこない 人の顔は浮かんでいるのに

顔ははっきり浮かんでいる。何度も会って、登記を依頼されたあの顧客。物腰も話し方も覚えている。でも、いざ名前を呼ぼうとすると出てこない。まるで脳の中の名簿に靄がかかったような感じ。思い出そうとすればするほど、名前が逃げていく。その瞬間、相手に失礼があってはならないというプレッシャーがのしかかる。そして余計に言葉が詰まって、会話全体がぎこちなくなる。こんなやり取りが続くと、「人と話すのが億劫だな」と感じてしまうのも無理はない。

会話が止まり 相手に気を使わせる自分が嫌になる

こちらが言葉に詰まったとき、相手が気を利かせて話題を変えてくれたり、笑ってごまかしてくれる場面がある。それはありがたいのだけど、同時にものすごく情けなくなる。「また気を使わせてしまったな」と感じると、ますます自信を失ってしまう。かつては話の主導権を握る側だった自分が、いまや空気を読まれる側になっている。会話の流れが途切れるたびに、自分が場を壊しているような感覚に陥って、自己嫌悪に拍車がかかる。

昔はもっとスムーズに話せていたはずなのに

自分でも信じられないが、若いころはそれなりに話せていた。地元の会合やお客様との折衝でも、堂々と自分の意見を伝えていた記憶がある。それが、今では口を開くのに勇気がいる。心のどこかに、「また詰まったらどうしよう」という恐れがこびりついていて、それが無意識のうちにブレーキになっているのかもしれない。言葉が出ないというのは単なる一瞬の出来事ではなく、自分の中の何かが静かに変わってきた証拠なのだろう。

若い頃は会話に詰まるなんてことなかった

20代の頃は、むしろ「ちょっと話しすぎじゃない?」と注意されるくらいだった。司法書士になりたての頃も、言葉数の多さで信頼を得ようとしていた部分があった。でも、あの頃の自信と勢いはいまの自分にはない。年齢のせいだけではない気がする。環境の変化、立場の重さ、そして経験を積んだことで逆に慎重になってしまったのかもしれない。とにかく、言葉が自然と出てこないことが増えた。

野球部時代の声出しと今の沈黙のコントラスト

高校時代は野球部で、毎日大声を張り上げていた。練習中は「ナイスボール!」「切り替えていこう!」と、声が枯れるまで叫んでいた。あのときの自分が今の静かな事務所を見たら、驚くだろうと思う。声を出すことが当たり前だった日々と、今の沈黙が支配する職場。声は出せる。でも、言葉が出ない。身体の中に残ったエネルギーと、口から出ない思いのギャップに、どこか切なさを感じている。

打席に立つ勇気はあっても人前で話すのは怖い

あの頃は、どんなにプレッシャーのかかる場面でも打席に立つことができた。失敗を恐れずバットを振れた。だけど今、人前で話すことが怖いと感じることがある。うまく伝えられるかという不安、途中で詰まったらどうしようという緊張。まるで空振りを恐れてバットを構えられないバッターのようだ。昔の自分にはなかった臆病さが、今の自分の中にある。情けないけれど、それが現実だ。

忙しさにかまけて心のメンテナンスを忘れていた

日々の業務に追われて、心を立ち止まらせる暇もなかった。朝から晩まで登記や相談、電話対応に追われていると、自分の感情に鈍感になっていく。言葉が詰まるのも、「まぁ年齢のせいだろう」と流していたが、それだけではない。心が疲れていると、思考も整理されない。思考がまとまらなければ、言葉も出ない。そういう悪循環の中に、いつのまにか取り込まれていたのかもしれない。

仕事に追われる日々が心を静かに蝕んでいた

「もう少しで落ち着く」「今月だけは忙しい」そう自分に言い聞かせながら過ごしてきた数年間。気づけば、何年も同じことを言っている。仕事の波は去るどころか、だんだん大きくなっている気さえする。心がすり減っていることにも気づかないまま、「これが仕事だから」と無理を続けてきた。その積み重ねが、今の言葉の詰まりになって表れているのだとしたら、少し怖い気もする。

会話の余白を持つ時間がなくなっていた

誰かと雑談する時間、ゆっくりお茶を飲む時間、黙って空を見上げる時間。そんな「余白」は日常からすっかり消えてしまった。頭の中は常に「次どうするか」「何が残っているか」でいっぱい。そうなると、自然な会話のキャッチボールなんてできるはずもない。言葉を探す余裕がないまま、会話の場に放り込まれて、出てこないことを自分で責める。その繰り返しに、もう疲れてしまった。

口が重くなったからこそ見えたもの

言葉がうまく出てこないという現象は、単なる老化でもスランプでもなく、今の自分の状態を映す鏡だったのかもしれない。仕事の忙しさ、孤独感、心の疲れ。それらが少しずつ蓄積されて、言葉という形で表に出てきたのだと思う。だからこそ、この違和感にちゃんと向き合うことが、自分自身をいたわる第一歩になるのかもしれない。口が重くなった今だからこそ、言葉の大切さに気づけた気がする。

言葉にしないと伝わらないという当たり前の重み

頭の中で考えているだけでは伝わらない。当たり前のことだけれど、それを痛感するようになった。言葉にして、声に出して、ようやく相手に届く。それができないと、どれだけ思っていても独り言にすぎない。言葉に詰まるたびに、その大切さを思い知らされる。だからこそ、怖くても、恥ずかしくても、言葉にする努力をしなければならない。それが相手への敬意でもあるのだから。

言葉を選びすぎて何も伝わらなくなる不安

最近は「誤解されたくない」「変に思われたくない」と、言葉を選びすぎている自分がいる。その結果、無言になる。何も伝わらないまま時間だけが過ぎていく。自分が思っている以上に、言葉には勢いが必要だ。完璧な言い回しよりも、多少不格好でも心から出た言葉の方がずっと伝わる。そう思えるようになるまでには、少し時間がかかりそうだけれど、まずは口を開いてみるところから始めようと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓