人生にだけ押せない印

人生にだけ押せない印

登記には立ち会えるのに人生の節目にはいない

朝一番の来客は、婚姻届に関する夫婦だった。いや、正確には元夫婦だ。離婚の財産分与で揉めた末にやっと合意に至り、私のところに来たわけだ。
「こちらに実印をお願いします」
手慣れた説明。二人は淡々と押印し、それぞれの書類を確認して頷いた。
書類の山は整い、机の上の風景は清々しいほどに片付いていく。でもその場には、妙な虚しさが残った。
ふと、テレビから流れてくるサザエさんのオープニング。あの家族の円満な姿を見て思う。「こちとら、契約書の中でしか人間関係に触れてねぇな」と。

依頼人の人生にはタイムスタンプを刻む

司法書士という仕事は、誰かの人生の通過儀礼にそっと立ち会う役回りだ。婚姻、離婚、相続、売買、設立、清算。
人生の起承転結に関わりながら、当事者では決してない。私の印鑑は、他人の人生には迷いなく押される。
だけど自分の人生にはどうだ?何も記録されちゃいない。

婚姻届や遺産分割協議の場にいるのは常

今日の午後は、遺産分割協議書の確認。相続人の中に揉め事好きの叔母がいて、まるで金田一少年の事件簿ばりに会議は長引いた。
「この筆跡は違うじゃない!」と、探偵役気取り。だが真相は単なるボールペンのインク切れだった。
やれやれ、、、推理ごっこも疲れる。

でも自分の人生には見届け人がいない

そういう時ふと、思う。
俺の人生に、こんな風に立ち会ってくれる人はいるのか?
婚姻も相続もない身には、証人も保証人もいない。
人生という長い契約書に、俺はまだ何一つ印を押していない。

他人の未来は整理できても自分の心は迷路のまま

不動産登記の相談を終えた帰り道。事務所に戻る途中、古い喫茶店に寄った。
頭の中で「俺の人生、登記簿に載せたら“所有者未定”って記載されるんじゃないか」なんて馬鹿なことを考えていた。

契約書は整えても自分の選択はいつも保留

「シンドウさん、コーヒーでいいですか?」
気づけばサトウさんが、書類の整理を終えて振り向いていた。
彼女は私が何も言わなくても動く。だからこそ、彼女の優しさは、ときに眩しすぎてまぶたが痛い。

踏み出すタイミングがわからない

昔、野球部だった頃はタイミングの鬼だった。盗塁もバントもサイン通りに決めた。
でも今は、人生という打席で、バットすら構えられていない。
チャンスボールが来ても、見逃すばかり。ボールカウントだけが増えていく。

気づけば立会人ばかりしている

誰かの決断にはいつも立ち会っている。
契約締結、会社設立、相続分配。どれも完璧に仕上げてみせる。
でも自分のことになると、締結する勇気が出ない。まるで、他人の人生の編集者だ。

サトウさんには気づかれている気がする

「先生、なんか最近疲れてます?」
書類を閉じる音と同時に、サトウさんが言った。
誤魔化すように「いや、特に…」と返したが、彼女の目はごまかせなかった。
あの目は、人の本音を見抜く探偵のように鋭い。

沈黙とため息に敏感な人

「無理しなくていいんですよ」
その一言が効いた。まるで、ぐちゃぐちゃの心を整理してくれる登記事項証明書のようだった。

何も聞かずに出してくるコーヒーが沁みる

今日のコーヒーには角砂糖がひとつ。
甘すぎず、でも、ほろ苦い。
まるで人生そのものだ。
いや、違う。誰かの人生を“味見”してるだけで、自分のカップはいつも空なのかもしれない。

でもその優しさすら重く感じる日もある

優しさって、時に居場所のなさを浮き彫りにする。
独り身には、温もりが毒になる日もあるのだ。

やれやれ、、、誰の書類を片付けてるんだか

ふと、机の上に置いたままの“空白の履歴書”に目が留まった。
司法書士登録のときの控えだった。
肩書きはある。資格もある。収入もそこそこある。
だけど「人生の同意欄」は、今も空白のままだ。

きっちり片づくのは他人の案件ばかり

明日も婚姻届の立会いが入っている。
その後は会社設立の定款認証。そのあと遺言執行の立会い。
完璧にこなす。自分の気持ちを棚に上げて。

自分の人生はずっと未提出のまま

どこかで提出すべきだったのかもしれない。
人生を変える願書を、誰かに。
あるいは、自分自身に。

提出先も保証人も不在

だが、誰に出せばいい?
保証してくれる人もいない。
このまま、記載なしのまま、終わっていくのだろうか――
…そんなことを考えながら、また別の誰かの書類に、黙って印を押す。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓