結婚の文字から目を逸らすようになった日
事務所のデスクに山積みの書類。その一番上に載った婚姻届の写しを見た瞬間、目を逸らしてしまった。いや、逸らしてしまったというより、本能的に視界から滑らせた。
「やれやれ、、、またこの類いか」
午前11時。外は晴れているらしい。だが窓を開ける気にもならず、エアコンの風だけが俺の頬を撫でる。
「先生、コーヒー入れましたよ」
背後から声をかけてきたのは事務員のサトウさん。冷静で、仕事ができて、しかも気が利く。そのくせ、笑うとやたら可愛いので困る。
彼女が俺に気があるとは思わないし、こちらも色恋を持ち込むほど若くもない。だが、人として好かれていたいとは思っている。…これがまた面倒くさい感情で。
「今日の依頼人、婚姻届に付ける書類でちょっとモメてて」
「ふぅん、またロマンスの行方を見守る係ですね、司法書士って」
「いや、俺はただの書類係だよ」
俺はコーヒーを一口すすり、目を閉じた。甘くない。相変わらずのブラック。人生もまた苦い。
探偵のように他人の人生を観察する職業
登記という仕事は、ある意味「人の区切り」を扱う仕事だ。結婚、離婚、相続、破産……。人の人生の節目に名前だけを刻む。
だが、自分の人生には節目が少ない。いや、増やす努力をしてこなかった。
ふと、隅の棚にある古い書類箱に目がいった。大学時代の同級生から届いた結婚式の招待状、出さなかった返信ハガキ、破れた写真。
その一枚に、野球部時代の仲間との写真があった。俺の隣でピースしてるのは、今や3人の娘を持つ父親だ。
「波平にも孫ができる時代だってのに、俺ときたら…」
俺はひとりごちて、また婚姻届の控えを睨んだ。
サザエさんと結婚届
「この苗字、変えたくないって言ってケンカ中らしいですよ」
サトウさんが件の依頼人についてぽつりと言った。
「そういうとこで揉めるなら、やめときゃいいのに」
「先生、言い方が荒いですよ」
「いや、結婚ってのは苗字より中身の問題だろう」
…自分で言っておきながら、その「中身」を育てる努力をしたことがあっただろうか。野球部では9人で守ったのに、今じゃ一人で全部のポジションをこなしてるようなもんだ。
そしていつしか、グラウンドには誰もいなくなった。
「先生 結婚しないんですか?」
サトウさんがふいにそう言ったとき、俺の手元のボールペンが止まった。
彼女は悪気なく言った。たぶん雑談の一環として。
だがその言葉は、まるで銃口のように俺の心に向いていた。
「やれやれ、、、またそれか」
俺は天井を見た。返す言葉を探している間に、天井のシミが一匹の怪盗のように忍び寄ってきた。
心の奥から、名探偵のような声が囁く。
「それでも、まだ君は孤独のままでいいのかい?」
誰もいないホームベースの前で
夕方。帰り支度をするサトウさんが俺に笑って言った。
「今日の依頼人、最後には笑って出て行きましたよ。先生のおかげですね」
「いや、俺は何もしてない。ただの裏方さ」
「でも、先生がいないと始まらないんですから」
そう言って事務所を出て行った彼女の背中を、俺は少しだけ長く見つめていた。
机の上には、処理が終わった婚姻届が静かに置かれていた。
それを手に取り、俺はしばらくじっと見つめて、やがてまたそっと伏せた。
もう目を逸らさなくてもいいかもしれない。
でも、それを直視できるようになるには、もう少し時間がかかりそうだ。
そして俺は、コーヒーをもう一杯淹れた。