住民票が知らない男

住民票が知らない男

依頼人は古びた上着を着ていた

その男は、雨に濡れたような古びた上着を着て、俺の事務所にふらりと現れた。
「住民票が出ないんです」——そう言ったその顔は、どこか影のある無表情だった。
正直、また厄介な依頼だなと思った。だが司法書士というのは、謎に好かれた職業なのかもしれない。

サトウさんの冷たい視線

男が帰ったあと、サトウさんがぼそっと呟いた。「偽名の可能性、高いですね」
そう言われると余計気になってしまう。普通、住民票が取れないなんてことは、よほどの事情がない限り起きない。
俺は既にその時点で、昼食のカップ焼きそばが冷める未来を覚悟していた。

忘れられた町の番地

調査を始めたが、男が言っていた住所には確かに建物がある。
しかし、地番は存在するのに誰もそこに住んでいないと住民台帳が告げていた。
不思議なことに、隣人たちもその家に「人が出入りしているのは見たことがない」と言う。

住民票に名前がない

役所で住民票を請求しても、「該当者なし」という冷たい回答。
印字されたその文字は、何かを拒絶するような無機質な力を持っていた。
まるでこの町自体が、その男の存在をなかったことにしようとしているようだった。

消された記録と無言の役所

職員に聞いても誰もピンとこない。
「ああ、昔、そんな名字の人、いましたっけねぇ…」
過去形で語られるその曖昧な記憶が、逆に妙な真実味を帯びていた。

転出履歴がないのに存在しない

通常、住民票が消えるには転出や死亡が伴う。だが、そのどちらの記録もない。
つまり、”何も起きていないのに、存在だけが失われている”という、あり得ない現象。
これは役所のミスなのか、それとも何者かの意図的な改ざんか。

サトウさんが見つけた奇妙な整合性

「登記簿には名前がありました。昭和の終わり頃、購入された記録が残ってます」
サトウさんの報告に、俺は思わず椅子からずり落ちそうになった。
つまり土地も建物もその男の名義であることは公式記録に存在する——にも関わらず、住民票はない。

戸籍と住民票の矛盾

本籍地の役場で戸籍を取り寄せると、そこには彼の名前がしっかりと記されていた。
なのに現住所にはその痕跡が一切ない。まるで二重生活の逆バージョンだ。
これは単なる事務ミスでは説明できない、何か深い事情があるはずだ。

登記簿には確かに名前がある

登記簿は、時間の流れを拒むかのように正確に記録を刻む。
そこには、平成の初めに所有権が移転された記録、そして固定資産税の納付履歴までもあった。
つまり、彼は“確かに存在していた”。それが事実である以上、どこかに嘘がある。

深夜の役場で見つけた手書きのメモ

深夜、残業で役場の書庫を調査していたときだった。
資料棚の裏から、黄ばんだ紙切れがひらりと落ちた。そこには手書きの文字で「提出不要」と書かれていた。
誰かが意図的に住民票の登録を止めていた——それが唯一の結論だった。

コピー機の裏に貼られた紙

サトウさんが見つけたもう一枚の紙には、「旧姓で出すよう指示あり」と殴り書きされていた。
行政の中に、何らかの“意志”があったのかもしれない。
俺はぞっとした。役所という巨大な機構の中で、個人の存在がこうも簡単に消されるのかと。

町内会長の証言

「たしかに、あそこに住んでいた男がいたよ。でも、、、妙な話があってね」
町内会長は、誰にも見られないよう周囲を見回してから話し始めた。
「彼はね、“本当の名前”をずっと隠していたらしいよ。あの家に誰か来ると、急に名乗りを変えてね」

あの家には誰も住んでいない

近所の人は、夜な夜な電気が点いたり消えたりしているのを見たという。
だが人影は一度も確認されていない。不気味だが、現実的には不在者の居住地扱いだ。
まるで誰かが“記録には残らない生活”を演出していたようにすら思える。

行方不明の男の過去

その男は、十数年前に別の町で”死亡届”を出されていた記録が見つかった。
だが、それは他人の名義を使ったものだった。真の身元は、誰にも知られていない。
ここにきてようやく、「住民票が出ない理由」が明確になった気がした。

山奥の分家と封印された過去

古い土地台帳を調べていくうちに、山間部に彼の親族が住んでいた記録にたどり着いた。
彼の出生も、戸籍の一部も、なぜか不自然な統合処理がされていた。
誰かが家系の”闇”を塗り潰した痕跡が、そこに浮かび上がっていた。

やれやれ、、、こんなことになるとは

昼飯を食いそびれたどころじゃない。
戸籍、住民票、登記、税記録、町の証言、そして影の意志——すべてが絡まり合い、真実はついに姿を現した。
「やれやれ、、、サトウさん、君の言った通りだったよ」俺はそう呟きながら、おでこに冷えピタを貼った。

司法書士としての職務を超えて

正直、これは司法書士の仕事じゃない。
でも、この町に住む“誰かの存在”を記録の上に回復させる。それが、俺たちにできるせめてもの償いだった。
「法務局に提出、お願いします」サトウさんの冷静な声が、今日も締めくくる。

真実を拒んだのは誰だったのか

最後に思う。
住民票が拒んだのは、行政の不備ではなく、その男自身の過去かもしれない。
だが、どんな過去も、今を生きる証として残すべきものだと、俺は信じている。

記録を守るために消された存在

人は時に、記録を守るために、誰かを“消す”。
今回の事件は、それが意図的だったのか、偶然だったのかはわからない。
でも、確かなのは——彼は存在していた。今も、あの町で静かに暮らしている。

再発行された住民票には

その後、関係各所の修正が行われ、ついに住民票が発行された。
そこに記された名前は、依頼者のものとは異なる仮名。だが、それが彼の選んだ“今”なのだろう。
真実は、書類の中よりも、これからの生き方にあるのかもしれない。

そこに書かれた意外な名前

名前欄には「カツオ ナミヘイ」。
「…まさか、サザエさんファミリーの中から選ぶとは」俺は思わず吹き出した。
「隠れるつもりが逆に目立ってるんじゃないですか?」サトウさんが小さく笑った——珍しく、少しだけ。

そして静かに訪れた日常

事件が終われば、また事務所にはいつもの静けさが戻る。
電話の音、プリンターの駆動音、そしてサトウさんの無言。
俺は冷めたカップ焼きそばに湯を注ぎながら、また次の謎がやってくる気配を感じていた。

サトウさんの小さなため息

「次は、もう少し平和な案件にしてくださいよ」
その言葉に、俺は笑ったふりをした。
——だって、“平和”なんて、この業界には存在しないのだから。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓