登記簿の端に残る違和感
忙しない午後の雨音に紛れて、私は一枚の登記簿謄本を眺めていた。何十年も前の抵当権が、きちんと抹消されていない。 目を凝らすと、他は整っているのに、その一行だけが妙に浮いて見えた。まるで“何か”を待っているようだった。 あまりに些細なことだった。だが司法書士という職業柄、些細なことこそ見逃せない。
書類一枚のズレから
依頼人は相続登記を依頼してきた初老の男性だった。ごく普通の手続き――そのはずだった。 だが提出された抹消証書は存在せず、完了証の控えもない。代物弁済がなされたというが、証拠はどこにもなかった。 ふと胸に浮かんだのは、あの名探偵コナンのようなひと言。「真実はいつもひとつ」。
土地家屋調査士の独り言
「あの土地、昭和の終わりごろに何かありましたよ」調査士の古参がポツリと言った。 地目変更の記録もなく、筆界確認の履歴も曖昧。にもかかわらず、抵当権だけが妙に残っていた。 私はメモを取るふりをしながら、その話に耳を澄ませた。地面は語らないが、書類は雄弁だ。
久々に訪れた依頼人
彼は緊張した面持ちで、再び私の事務所を訪ねてきた。 「あの、抹消の件なんですけど……やっぱり気になって」 そのとき、背後でタイミング良くサトウさんのキーボードがカタカタと止まった。
見覚えのある筆跡
差し出された古い契約書。そこにあった署名は、十年前に別件で関わった人物と酷似していた。 当時も抵当権に関する書類が問題になった。思い出した瞬間、背筋に寒気が走った。 偽造――いや、それよりも意図的な「残し」ではないかと私は考えた。
不自然な委任状の作成日
委任状の日付は、登記簿上の抹消予定日よりも二ヶ月も後だった。 つまり、本来の手続きの流れとは食い違っている。 「あー、これはもしかして…」と私は独り言を漏らし、サトウさんが即座に顔を上げた。
サトウさんの冷静な指摘
「先生、この印鑑証明、発行日が委任状より前ですけど有効期間切れてません?」 彼女の言葉は鋭利だった。私は思わず書類を手から滑らせそうになった。 やれやれ、、、またか。サトウさんに頭が上がらない瞬間だった。
抹消されていない謎の抵当権
登記簿に残る抵当権は、抹消の必要がなかったのではない。 むしろ、意図的に抹消されずに「生かされていた」。その可能性が浮上してきた。 もし誰かがこの権利を盾に、相続財産に口を出すつもりなら――話は簡単ではない。
残された登記原因証明情報
古いFAXの写し、そして役所から送られてきた登記原因証明の控え。 どちらもぼやけて読みにくいが、不自然な送信時刻と宛先の記録が残っていた。 そこに浮かび上がったのは、件の男性とつながる「別の司法書士」の名前だった。
昔の登記が語るもの
書類箱を引っ掻き回しているうちに、十年前の私の手帳が出てきた。 その中に、「○○市K氏 抵当抹消ミスあり注意」と殴り書きが。 忘れていた――いや、見ないふりをしていた記憶が、手帳越しに問いかけてきた。
昭和の名残か意図的な忘却か
手続きを省略する、抜け道を使う、文書でなく口約束で済ませる。 昭和の不動産取引には、今では考えられない手法がまかり通っていた。 だが、今回はその「慣習」が命取りになったらしい。
経験からくる違和感の正体
「どうしても気になる」と感じた私の違和感。 それは、何百枚も処理してきた登記簿を眺めた経験の中に根付いたものだった。 細部のズレ、それこそがこの件の鍵だった。
調査の果てに見えた事実
古い取引に関わった銀行員を訪ねて、私は出張先の喫茶店へと足を運んだ。 彼は懐かしむように語った。「あれは、うちの行内でも問題になってたんですよ」 彼の話は、すべてを一変させる爆弾のようだった。
隠された売買契約書
本来存在しないはずの売買契約書が、ひとつのファイルに紛れて見つかった。 それは「抹消しないでくれ」と書かれた手紙と一緒だった。 書いたのは故人であり、抵当権が“抹消されないように”仕組まれていた。
銀行員の証言と矛盾
「正式な抹消は出されなかった。だから、そのままにしていた」と銀行員は言った。 だが、それと照らし合わせると、現在の登記情報と矛盾していた。 つまり、誰かが勝手に“抹消されたふり”をしていたということだ。
司法書士会館の重いドア
私は一通の報告書を持って、重いドアを開けた。 そこに座っていたのは、十年前の“別の司法書士”。彼は目を伏せていた。 「すまなかった」と小さく漏らしたその声は、妙に静かだった。
同業者が語る過去の処理
彼は当時、依頼人からの強い要望に負け、抹消書類の処理を止めたという。 「そのほうが揉めないと思ったんだ」 だがそれが、今になって大きな火種となってしまった。
黙された抹消手続の真相
結局、書類は提出されず、登記だけが放置された。 まるで“残された者が揉めるように”仕組まれていたかのようだった。 それが今回の相続トラブルの根底にあった。
やれやれの一杯と結末の整理
「先生、今日もカフェオレでいいですか?」 事務所に戻り、ようやく椅子に腰掛けた私はうなずいた。 やれやれ、、、疲れる事件だった。
一番面倒な書類ほど真実が眠る
平凡な登記簿、古い抵当権、抹消忘れ。 どれもありふれているが、その中にこそ“人間の事情”が詰まっている。 「書類を信じるしかないんです」と私はまた呟いた。
うっかりが導いた真相
サトウさんは笑わなかったが、目元がほんの少しだけ緩んでいた。 「うっかりしてて、よくここまで行けましたね」 いや、ほんと、それが俺の唯一の才能かもしれない。
登記に刻まれる罪と救い
今回の事件は、不作為という罪が、どう受け継がれていくかを教えてくれた。 だが同時に、それを丁寧に見つめることが“救い”になるのだとも。 司法書士という仕事の重さを、またひとつ、噛みしめた。
一行の見落としが生んだ代償
登記簿のその一行。それを抹消していれば争いは起きなかった。 でも、人はそんな簡単に割り切れない。だからこそ、誰かが書類を見張る必要がある。 私はその「誰か」であり続けたいと思った。
次の依頼も、静かに始まる
電話が鳴った。サトウさんが受話器を取り「はい、司法書士の…」と事務的に応じている。 その声を聞きながら、私は次の登記簿に目を落とす。 また新しい“なにか”が、そこに潜んでいる気がしてならなかった。