登記簿に載らない恋
地方都市の片隅、薄曇りの空の下で静かに回っている司法書士事務所のファンの音。それがこの物語の舞台だ。退屈な登記と申請のルーティンの中で、それでも人間模様は刻一刻と変わっていく。
司法書士シンドウの目の前には、毎日のように「事件」がある。ただしそれは、法的な意味ではなく、もう少し人間的な、感情がにじむ種類のものだ。
そんなある日、事務所の空気に、ほんの少し、しかし確かな違和感が漂った。
忙しさの中の違和感
午前中の相続登記案件を処理しながらも、どこか落ち着かない気配に気づいていた。いつも手際よくファイルを差し出してくるサトウさんが、妙に静かだったのだ。
「風邪でも引いたか…?」などと心の中で思いつつ、シンドウはデスクに積まれた申請書の山に意識を戻した。しかし違和感は、昼を過ぎても消えることはなかった。
まるで「サザエさん」のエンディングが始まる5秒前のような、静かな不安があった。
机の引き出しに残されたメモ
昼休みに事務所をひとりで見回っていると、ついサトウさんの机の引き出しが少し開いていることに気づいた。好奇心と心配が勝り、そっと引き出しをのぞいてしまう。
そこには一枚の付箋が残されていた。『明日、あの人と会う。印鑑は持っていく。』という走り書きに、シンドウの眉がピクリと動いた。
「やれやれ、、、まさか恋愛沙汰か?」つい呟いてしまった自分の声が、ファンの音に吸い込まれていった。
サトウさんの様子がいつもと違う
午後になってもサトウさんの態度は変わらなかった。いや、むしろ無理に明るくしているように見える。それが逆に、なにかを隠している証拠のように思えた。
「恋をしている女ってのは、こういうもんなんですかねぇ…」などと昭和の刑事ドラマ風につぶやいてみるが、誰もツッコんではくれない。
そんなモヤモヤを抱えたまま、シンドウは夕方の登記申請の処理に戻るしかなかった。
午後三時の電話と封筒の中身
その時、サトウさんの携帯が鳴った。普段なら事務所では鳴らさないようにしている彼女が、慌てたように席を立ったのだ。
置き忘れた書類の中に、封筒が一つ。名前のないそれを何気なく開けてしまった自分を、シンドウは少しだけ責めた。
中には、不動産の登記事項証明書と、何故か他人名義の委任状が入っていた。
登記申請書に潜む不一致
翌朝、提出された登記申請書を確認していたシンドウは、一つの不一致に気づいた。添付された住民票の住所と、登記事項のそれが微妙に異なるのだ。
「おいおい、これは本当に本人が書いたのか?」と独り言ちつつ、かつての『名探偵コナン』で阿笠博士が怪しまれたシーンをふと思い出す。
そう、細かい部分にこそ、真実が宿るのだ。
誰かが印鑑を偽造している
申請人の実印の印影が、どうにも不自然だった。昔見たテレビで怪盗ルパンがゴム印を使って変装していたのを思い出す。
そんな子どもじみた発想でも、今のシンドウにはヒントになった。誰かが印鑑を偽造して、この登記を進めようとしている可能性がある。
そして、その封筒を持っていたのはサトウさんだった。
恋人の名前と権利証の名前
さらに調査を進めると、委任状に記載された人物が、サトウさんの交際相手であることが判明した。しかも彼は、以前から「所有者になりたい」と相談していた元顧客だった。
「悪いヤツじゃないんです」とサトウさんは言った。しかし登記において、想いは証拠にはならない。
シンドウは腕を組みながら、「やれやれ、、、これが恋の力ってやつか」と天井を見上げた。
不動産の持ち主は本当に彼か
名義変更の意図が不透明なまま進められていた。恋人が「書類は全部揃っている」と言っても、それだけで認めるわけにはいかない。
そして決定的だったのは、その物件に関して、前の所有者の相続登記が終わっていなかったことだ。
つまり、この登記自体が成立しない可能性が高い。
シンドウのうっかりが突破口に
その日、またもやうっかりして住民票のコピーを二重に取ってしまった。ところがそのミスが、意外な証拠を導くきっかけになった。
二通の住民票のうち、一通には新しい住所が記載されていたのだ。恋人はすでに住所を変えていたのに、古い住所のままで申請を進めていたのだ。
これは、少なくとも「虚偽の申請」にあたる。
サトウさんの「内緒」の理由
問い詰められたサトウさんは、静かに口を開いた。「彼を信じたかった。でも、先生の目には全部バレてるんですね」と少しだけ笑った。
「内緒にしたのは、ただの恋です。でも登記は、本当のことだけにしたかったんです」と彼女は小さく頭を下げた。
その言葉に、シンドウは苦笑した。「そりゃ、登記簿には嘘は載せられないからな」
登録免許税より重たい想い
人の想いは、税金じゃ測れない。どんなに書類を整えても、そこに嘘があれば、それは通らない。
「おれの人生も、誰かに登録してくれねえかな…」とぼやいたシンドウに、サトウさんは見事にスルーした。
やれやれ、、、孤独は司法書士の標準装備なのかもしれない。
過去の登記に仕掛けられた罠
実はこの案件、過去の未登記部分にもう一つの罠があった。恋人が取得しようとしていた物件は、かつて抵当権が設定されていた。
その抹消登記が完了していなかったため、名義を移しても何の意味もなかったのだ。まさに泥舟。
サトウさんはその事実に、初めて涙を見せた。
真実と感情のすれ違い
真実は、いつも書類の中にある。しかし、感情はそこに書き込めない。登記簿に「好き」と記す欄はないのだ。
だからこそ、人は時に間違える。登記より先に、気持ちを整理すべきだったのかもしれない。
でもそれも、若さの特権なのだろう。
登記簿には残らない結末
恋人との関係は、法的には何も残らなかった。ただ、サトウさんの中には、確かに何かが刻まれたようだった。
そしてシンドウは、今日も申請書を眺めながら、「登記簿に残らない物語」があることを、改めて実感していた。
「やれやれ、、、事件じゃなかったが、これはこれで大仕事だったな」とため息をついた。
恋の証明と司法書士の矜持
恋は、証明できない。でも登記は、証拠がなければ通らない。だからこそ、司法書士の仕事は意味がある。
シンドウは机の上の申請書を見ながら、静かにこうつぶやいた。「俺の役目は、感情じゃなくて真実を押すことだ」
そして、ファンの音だけが、また静かに回り始めた。