鍵のかからない部屋と偽りの妻

鍵のかからない部屋と偽りの妻

奇妙な依頼人がやってきた

午前十時 無言の来訪者

薄曇りの火曜日。蒸し暑い空気のなか、事務所のドアがギィと音を立てて開いた。 黒縁メガネをかけた細身の男が、まるで時代劇の斬られ役のようなぎこちない足取りで中へ入ってきた。 「登記のことで相談がありまして」と彼はぼそぼそと呟いたが、目はどこか宙を泳いでいた。

保証人欄の違和感

提出された書類には、賃貸借契約書と婚姻届の控えが綴じられていた。 しかし、保証人欄に書かれた名前がどこかで見た気がしてならない。 サトウさんが無言で僕の肩越しに覗き込み、一言ぽつりと呟いた。「これ、去年破産申請した人ですね」。

サトウさんの観察眼が冴える

筆跡が語るもう一人の存在

サトウさんは筆跡をじっと見つめていた。いつもの塩対応とは裏腹に、完全に集中モードだ。 「この名前、女性のものですよね?でも書いたのは別の人。おそらく左利きの男」 紙の端をトントンと整えながら、彼女は続けた。「筆圧と角度が、どう見ても女じゃない」。

登記簿に記された空き部屋

不動産登記情報を調べると、男が住んでいるという部屋は登記簿上「空室」となっていた。 管理会社の情報では、そこは「婚姻済みの女性」が入居中となっていたが、婚姻相手の情報が空白だった。 いわば「幽霊部屋」。つまり実在していない夫婦が、部屋に住んでいることになっていたのだ。

滞納の裏に隠された真実

三ヶ月分の家賃が語るもの

「三ヶ月分滞納です」と管理会社の担当が苦い顔で言った。 しかし振込履歴を見ると、女性名義で一部支払いがされていた形跡があった。 「別人の口座が家賃を支払ってるってことは、名義貸しじゃなくて、、、誰かが身代わりに?」と僕は首をひねった。

隣室の住人は誰なのか

男の住む部屋の隣に「山本静江」という女性が住んでいた。名前にピンと来た。 僕の事務所で以前、離婚届の証人欄について相談に来た女性だ。あのときも妙に歯切れが悪かった。 「名字、変えてないんですね」とサトウさんがポツリとつぶやく。鋭い。やはり繋がっているのか。

サザエさん的日常に潜む違和感

玄関チャイムと名乗らぬ女

後日、現地確認のために物件を訪ねた。玄関チャイムを鳴らすと、髪をまとめた女性が出てきた。 「どちら様ですか?」と低い声。名前を名乗らず、目を伏せたままだった。 そのとき、室内から男のくしゃみが聞こえた。「あ、あの声……」僕は確信を抱いた。

やれやれ、、、また一癖ある話か

僕は後ろで腕を組むサトウさんに小声で言った。「やれやれ、、、また一癖ある話か」 彼女はため息交じりに「司法書士って便利屋じゃないんですけどね」と返してきた。 ほんの少しだけ、口元が緩んでいたような気がする。

偽装の動機と本当の関係

婚姻届の捺印者は誰だ

婚姻届に押された印鑑の印影が登記申請書と一致しなかった。つまり、誰かが成り代わって書類を作ったのだ。 「登記されていないだけで、偽装じゃなく事実婚ってやつかもしれませんね」とサトウさん。 だとすれば、この部屋と契約自体が“二人の関係”そのものだったのかもしれない。

男の目が語る後悔と執着

再び訪ねたとき、男は玄関先で頭を下げてきた。「彼女を守りたかった、それだけなんです」 泣いていた。何度も裏切られてきたような目をしていた。 「家賃のことは僕が払います。彼女の名義は外してください」その一言に、偽装以上の感情が滲んでいた。

追い詰めたのは司法書士

鍵のコピーと指紋の謎

部屋にあった合鍵のひとつに、指紋が二人分残っていた。 つまり、どちらもこの部屋を“自分の家”として扱っていた証拠だ。 登記よりも現実が強かった。僕は鍵を封筒に入れ、静江の元へ郵送した。

偽装婚の出口戦略

手続きとしては「無効な婚姻」だ。しかし、彼らには感情があった。 静江は連絡に応じず、代わりに退去通知だけがポストに残されていた。 「どこかでまた会えるといいですね」男はそう言って笑ったが、目は赤かった。

真相とささやかな救い

結婚していないのに夫婦だった

法的には無効で、社会的にも曖昧で、周囲には迷惑をかけた二人。 だが、互いを思いやる気持ちだけは本物だったのかもしれない。 「結婚してなかったけど、夫婦だったんですね」僕はふとつぶやいた。

シンドウの最後のひと言

帰り道、空を見上げるとぽつりと雨が落ちてきた。 「やれやれ、、、洗濯物、取り込んでなかったな」 サトウさんは傘も差さず、少しだけ笑ったような気がした。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓