訪れたのは誰もいないマンション
郊外の山裾に立つ古い一棟マンション。その風貌は、昭和の刑事ドラマにでも出てきそうな雰囲気を醸し出していた。依頼は、被相続人が所有していたこのマンションの名義変更手続きだったが、どうにも引っかかる点が多すぎた。
「誰も住んでないはずなのに、夜になると一部屋だけ明かりがつくんですよ」そう不動産屋の男性が小声で呟いた。まるで怪談話でもするように。
お盆進行でバタついていた私は、軽く頭をかきながら「まさか、ね」と笑ったものの、背筋がすっと冷たくなった。
遺産整理の依頼で郊外へ
依頼人は東京在住の長男。父親が生前に所有していた地方の収益物件を処分するため、相続登記と売却の相談に来たのだった。資料を見た瞬間、私は違和感を覚えた。
登記簿の構造が妙だった。九階建てと記載されているが、平面図には八階までしか描かれていない。さらに、いくつかの部屋番号が飛んでいた。
これは、何かある。
九階建ての一棟マンション
マンションの外観は確かに九階まであるように見える。だが、エレベーターのボタンには「9」の表示がない。最上階は「8」だと示されている。
「あの……九階には行けないんですか?」私の問いに、不動産屋は苦笑いを浮かべた。
「昔から、ないことになってるんです」
登記簿と現地の矛盾
建物全部事項証明書には「九階建」と明記されているのに、現地の構造と一致しない。しかも、昭和後期に一度、大規模な合筆処理がなされていた。
その際の原因欄には、「改築に伴う統合」とだけ記されている。だが、どう見てもその痕跡はない。
それはまるで、最初からなかった階を、書類上だけ消したような雰囲気だった。
不在の所有者たち
マンション内の数室には、現在も登記上の所有者が存在していた。しかし、それらの人物は全員、既に死亡していたり、住民票が除票になっていた。
しかも、死亡日と登記の変更日が一致しない。相続登記が未了のまま、謎の時間差があるのだ。
「まるで、登記簿の中でだけ生きてるみたいだな」私は冗談交じりに呟いた。
住民票が存在しない居住者
さらに不可解だったのは、地元の役所で取得した名寄帳。九階部分には部屋番号すら割り当てられておらず、住民登録も一切なかった。
だが、その部屋に宛てて届く郵便物が、毎週一通だけあるらしい。差出人は「R K」とだけ記されていた。
この時点で私は、もうこの物件の登記業務からは完全に一線を越えてしまっていた。
夜中に灯る部屋の謎
調査の合間、夜に再び現地を訪れた。静まり返る廊下。階段を上り八階まで到達した時、ふと気づいた。最上階の天井に、古びた鉄製のハッチがある。
まるで『名探偵コナン』のエピソードのような展開に、「いやいや、ないない」と首を振る。
しかし、その瞬間だった。天井の向こうから、確かに誰かが歩く音が聞こえた。
管理人が見た幽かな影
翌朝、管理人に話を聞いた。「あの上?あれは昔、物置だったんですよ。でもね……」
彼はそこで口をつぐんだ。まるで何かに怯えるように、急に席を立ってしまった。
やれやれ、、、こういう話はどうも苦手だ。
サトウさんの調査報告
翌日、事務所に戻るとサトウさんが資料を広げて待っていた。顔はいつもの通り冷静無表情。
「例の合筆処理、地番の変遷に一つだけ齟齬があります」
そう言って見せた資料には、地番の連番の中に、一つだけ抜けた番号があった。
名寄帳が語る土地の過去
サトウさんはさらに、合併前の土地に「住居表示未実施区域」の記載があったことを示した。
つまり、あの九階部分は元々「地番」でしか存在せず、住居表示からは消されていたのだ。
存在しない部屋に、登記だけが残されていた。逆に言えば、登記にだけ存在したのだ。
法務局での気付き
調査を進めるうち、私は法務局でかつてこの物件を担当していた職員に出会った。
彼は苦笑しながら言った。「あそこね……誰も触りたがらないのよ。理由は、わかるでしょう」
その表情は、まるで墓場を指差すようだった。
登記官のため息の理由
「職権で閉鎖できれば楽なんですけどねえ」彼はぼそっと呟いた。
「でも、まだ“誰か”が持ってることになってるから」
そう、“なっている”だけなのだ。
九階の正体
九階には、かつて貸倉庫があった。その倉庫を改装して、若い芸術家が住んでいたという。
火事で亡くなった、という記録も新聞にあった。しかしその後、その階は封鎖された。
そのアーティストの名前は、「R K」だった。
かつて存在したはずの部屋
記録上の部屋番号「901」は、今ではすべての帳簿から消されている。
だが、登記簿にだけ、今も彼の名義が残っていた。差出人のR Kと一致していた。
幽霊ではなく、記録の中でだけ存在し続ける人物。紙の中の亡霊。
僕が見た最後の影
数日後、登記簿の名義変更のための書類を揃えるべく、再度現地を訪れた。
屋上に続く非常階段を上がると、そこには扉があった。薄く錆びてはいたが、鍵はかかっていなかった。
その中に足を踏み入れた瞬間、まるで『金田一少年の事件簿』の一話のような寒気が走った。
夜明け前の屋上で
部屋の中央に置かれていた、古びたキャンバスと絵の具。壁には「見てくれてありがとう」とだけ残されたメモ。
それを見た瞬間、不思議とすっと心が軽くなった。
彼は、ただ誰かに見つけてほしかったのだ。
登記に記された真実
手続きは完了し、九階部分は正式に建物から削除された。名義人不明のまま、相続財産法人として処理された。
だが、彼の痕跡は確かに残っていた。そして、ほんの少しだけ、私の記憶の中にも。
幽霊なんて信じない。でも、あの夜の足音は、きっと——。
書き換えられた履歴事項証明書
訂正登記が完了し、履歴事項証明書からも「九階」は姿を消した。
だがその証明書を見つめていると、ふと裏側に何か書かれているような気がした。
「また来てくれてありがとう」
やれやれ僕の仕事はここまでか
事務所に戻ると、サトウさんは淡々とパソコンを叩いていた。
「何か見ましたか?九階で」
「見た気がするだけだ」私はそう答えて、椅子に深く腰を沈めた。
サトウさんの冷たい一言
「次は、相続放棄の書類です。さっさと処理してください」
それだけ言って、彼女は視線を画面から一切動かさなかった。
……やれやれ、ほんと冷たいんだから。
だけどまあ たまには褒めてほしい
最後にふと、彼女が小さく言った。
「まあ、役には立ちましたね」
……やれやれ、それだけでもう、十分だ。