午前八時の電話
「所有者不明の土地について相談したい」との一本の電話が入ったのは、珍しく定時で出勤した朝のことだった。コーヒーに口をつける暇もなく、サトウさんは既にキーボードを叩いていた。
「地番は聞いた?」と尋ねると、「メモはそこに置いてあります」と素っ気ない返事。なんともサザエさんの波平よろしく、俺の存在は空気のようだ。
電話をかけてきたのは近所の老婦人。どうも父親名義だった土地が放置されており、建物もなく草がぼうぼうとのことだった。
塩対応の始業チャイム
「それ、固定資産税も払ってないんじゃ?」とサトウさん。俺が口を開く隙もない。昔から思っていたが、彼女は『ルパン三世』の次元並みに無駄がない。
「所有者不明土地」と聞くと厄介な匂いしかしない。だが、今回はどこか引っかかる。何よりその地番、なぜか見覚えがある気がした。
やれやれ、、、面倒な案件の予感しかしない。時計の針はまだ午前八時半。今日も長くなりそうだ。
所有者不明土地という迷路
件の土地は、昔工場があった区画の一角だった。だが今は何の痕跡もない。登記簿を見ると、最終の所有者名は昭和のまま、移転の記録もなし。
こうしたケースでは相続未登記がほとんどだが、なぜか関係者の足取りも曖昧だ。妙に情報が抜けている。
「この住所、昔うちの父が関わってたはずなんです」と老婦人は言うが、それを裏付ける資料はなかった。
登記簿に空いた沈黙
登記簿の所有者欄は文字が滲み、古い手書きが目立つ。電子化される以前の手続きで止まっていた。
「これ、仮登記から本登記に移ってないですね」とサトウさん。まるでファントムみたいな登記だ。名前はあるが、実体が見えない。
まさにキャッツアイのように、過去がさらりと姿を消しているのだった。
隣人が語る空き家の歴史
「あそこ?昔は確か薬屋があったんだよ」と隣の老夫婦が教えてくれた。聞けば昭和の終わりに閉店したらしい。
「そのあと息子さんが戻ってくるとか何とか言ってたけど、結局誰も来なかった」との証言。だがその「息子」の名前がわからない。
紙の記録はある。人の記憶もある。でも、それが一致しないのが一番の謎だ。
小さな町の大きな記憶違い
昭和の地番変更が原因かもしれない。昔の地図と今の地図が一致していないのだ。
まるで名探偵コナンの舞台装置のように、正解にたどり着かせまいと誰かが細工しているかのようだ。
ただ、これが偶然にしては出来過ぎている。何かが意図的に消されているとしか思えない。
墓地の地図と父の手帳
依頼人の持ってきた父親の遺品の中に、古い地図と簡単なメモ帳があった。それは、俺が一度見た覚えのある地番を指していた。
なぜかはわからないが、俺の父もかつてその地番に関わっていた気がする。昔、夜中に話していたことが蘇ってくる。
「地番は人と同じで、忘れられると消えるんだよ」——あの言葉の意味が、ようやくわかった気がした。
サトウさんの推理力が光る
「これ、相続じゃなくて売買じゃないですか?記録が飛んでるけど、譲渡された形跡があります」とサトウさん。
「それも、相当昔の話ですね」と言いながら、彼女は役所に電話をかけ始めた。俺が追いつけるのはいつも1テンポ遅い。
でもそれがいい。彼女が前を走ってくれれば、俺は安心してボールを拾える。
登記漏れか意図的な抹消か
結論から言えば、あの土地は誰かが確かに買い取っていた。そして、その登記がなぜか途中で止められていた。
通常であればあり得ない。だが、それが“わざと”だとしたら?
「事件じゃなくて、事情だったのかも」と俺は呟いた。誰かを守るための、沈黙。
謄本の裏にあったもの
古い謄本の裏に、小さく走り書きが残っていた。「感謝します」——依頼人の父の字だった。
その日、俺は父の言っていた「土地が語る」という意味を少し理解した気がした。
地番は無言だが、そこには確かに、誰かの人生が埋まっている。
昭和六十年の真実
関係者が町を去った理由は、借金ではなく看病だった。病を抱えた妻を都会で看取るために、地元のすべてを置いていったのだ。
所有権移転の処理はされなかった。彼の中で「土地」はすでに、過去のものだったのだろう。
それでも、土地はここに残り続ける。人の記憶のように。
公図では見えない心の地番
俺はその日、久しぶりに父の墓参りに行った。父の地番もまた、誰かの記憶の中に生きている。
「やれやれ、、、たまには墓石も拭くか」と呟いた時、後ろからサトウさんが「風で飛ばされますよ」とそっけなく言った。
まったく、この事務所に感傷の余地はないらしい。
土地は誰のものか
結局、依頼人は相続放棄を選んだ。だがその前に、その土地に花を手向けた。それがすべてを物語っていた。
土地の所有者は法で決まる。だが、土地の記憶の持ち主は——。
俺たちのような「司法書士」が、それを少しだけ繋いでいく役割なのかもしれない。
心の登記簿に記すべきもの
帰り道、サトウさんが一言だけ「お疲れさまでした」と言った。俺はなんだか、そこにすべて救われた気がした。
空を見上げると、どこまでも高く、青い空が広がっていた。地番も記憶も、やがて風に流れていく。
だけど、今日のことは忘れない。心の登記簿に、しっかりと記録しておこうと思う。