朝一番の電話
蝉の鳴き声すら聞こえない静かな朝。事務所の電話が不意に鳴った。ぼんやりとコーヒーをすすっていた私は、ようやく受話器に手を伸ばした。
「もしもし、司法書士のシンドウです」そう名乗った瞬間、相手の声が低く沈んだ。「父の遺言について、ちょっと相談したいことがあるんです」。
よくある相続の話だろうと軽く考えた。だが、このときの私はまだ知らなかった。一本のカーボン紙が、この夏の事件の全ての鍵になるとは。
いつも通りの事務所に響く一本の着信
この時期の電話は大抵、相続か不動産絡み。私の心も半ば受け流すようにして聞き流していた。「父が残した書類が、なんか変なんです」と相談者。
“なんか変”。この漠然とした違和感が、後に私の好奇心を揺さぶることになる。ひとまず午後一に面談を設定し、電話を切った。
サトウさんがぼそりとつぶやいた。「こういうの、たいていロクでもないですね」。塩対応ながら的を射ているのが悔しい。
相談者は顔を見せずに話し始めた
約束の時間になっても相談者は姿を見せなかった。代わりに宅配で封筒が届いた。中には一枚の遺言書と、なぜかカーボン紙が添えられていた。
「やれやれ、、、」私は額に手を当てた。面談よりも書類を送りつけてくるこの感じ、すでに事件のにおいがする。サザエさんで言えばノリスケのやらかしだ。
だがそのカーボン紙には、何か得体の知れない違和感がこびりついていた。書かれている内容は本物のように見えたが…。
奇妙な依頼内容
遺言書は「全財産を長男に相続させる」とだけ書かれていた。印影もある、日付も問題ない。しかし、なぜカーボン紙が添えられているのか。
私の頭の中に、昔読んだコナンの話がよぎった。あれはたしか、紙の裏写りでアリバイが崩れたやつだ。ならこれは何を残そうとしたのか?
サトウさんが虫眼鏡を取り出し、無言でカーボン紙を照らす。私はいつものように、彼女の目が何かを見つけるのを待つだけだった。
亡き父の残したカーボン紙の謎
「このカーボン、重ね書きしてるわね」サトウさんの一言が静寂を破った。確かに、一枚のカーボン紙に二重の筆跡が重なっていた。
筆圧が強いのと弱いのとで、明らかに二度にわたって書かれていた痕跡がある。これは“書き直された”可能性が高い。
しかも、一度目と二度目で、受遺者の名前が違うように見えた。「長男」と「次男」。何があった?
書類の山と碧い痕跡
私は市役所と法務局を回り、被相続人の登記記録を洗い直した。古びたファイルには、確かに次男が一度相続した形跡があった。
しかし、それはたった数日で取り消され、改めて長男に変更されていた。しかも、変更の裏付けとなるのが、今手元にあるこのカーボン紙と遺言書。
書類は嘘をつかない。だが、人間は書類に嘘を“書ける”。まさに、そこがこの事件の核心だった。
カーボン紙に浮かび上がる筆跡
筆跡鑑定を依頼する前に、私はサトウさんと一緒に手書き文字を分析した。特に“長”と“次”の書き癖に注目する。
二つの文字には明らかな差があった。次男の名前は滑らかに、長男の名はぎこちなく書かれている。つまり、どちらかが本意ではない。
そして何より、強い筆圧の方が「次男」を指していた。父親の本心は果たしてどちらにあったのか。
同一筆跡に見えない違和感
長男の筆跡と父親の筆跡が、あまりに酷似していた。まさかと思いながら、長男に手紙を出して、筆跡見本を取らせた。
戻ってきたそれは、見事に遺言書の“強くない方”の文字と一致していた。つまり、誰かがカーボン紙を使って、後から改ざんした。
この時点で私の中ではほぼ答えが出ていた。だが、証拠がまだ足りない。私は最後の一手に賭けることにした。
サトウさんの冷静な観察
「カーボン紙って、熱に弱いんですよね」サトウさんがぽつりとつぶやいた。私はそれを聞いて目を見開いた。そうか、その手があったか。
コピー機の熱で写りが変わる。つまり、コピー履歴を見れば、誰が何を何回写したかがわかるかもしれない。
近所のコンビニを何件も回って、防犯カメラの協力を仰いだ。すると、一件だけ、事件当日の夜に遺言書とカーボン紙をコピーする男の姿が映っていた。
筆跡のゆがみが意味すること
その男は、相談者の兄――長男だった。つまり、父の死後にこっそり遺言を「上書き」したのだ。元の遺言は、次男への思いだったというのに。
「やれやれ、、、この暑さにこれは堪えるな」と私は苦笑した。だが、真実はようやく形を持った。
カーボン紙は見ていた。父の手が、本当は誰に向かって伸びていたかを。
故人の意思は本物か
家裁を通じて鑑定報告を提出し、登記の是正が行われた。次男にすべてが戻ったとき、彼は何度も頭を下げた。
「兄は父を恨んでいたんです。きっと、最後まで許せなかった」その言葉が妙に重たく感じられた。
遺産は金ではない。記憶と、敬意だ。書かれた文字の中に、それが残されていたのだ。
遺言書と登記簿のズレ
私は事件簿の端に「カーボン紙に眠る真実」と記した。ふと、昔の野球部時代を思い出した。スコアブックのカーボン紙、あれもよくミスを隠したものだった。
だが、人生は試合と違って帳消しにできない。誤魔化しはいつか浮かび上がる。
紙に残ったのは、故人の最後の願いだった。
隠された記録と時間の罠
サトウさんが退勤間際に言った。「カーボン紙って、結局、本音が写るんですよね」。
私は思わず笑ってしまった。まったく、冷静な分析のあとに詩的なことを言うんだから、彼女には敵わない。
あの封筒が届かなければ、きっと真実は永遠に封印されていた。誰かの手が動かした小さな紙片。それが、すべてを暴いた。
複写のタイムスタンプに注目
最終的に決め手となったのは、コピー機のレシートだった。そこに記された時間が、死亡日を数時間超えていた。
それだけで改ざんの証拠としては十分だった。私の役目は、書かれた時間と写された時間を照らし合わせることだった。
それだけのことなのに、なぜかとても疲れた。
最後に浮かび上がった真犯人
長男は警察に連行された。私がしたのは、司法書士としての報告と、登記の是正。だが、それだけでも十分だったと信じたい。
事件が終わった事務所に、蝉の鳴き声が戻ってきた。少しだけ、風が涼しくなった気がした。
「シンドウさん、明日はちゃんとゴミ出してくださいね」サトウさんの声が刺さる。事件は終わっても、日常は続くのだった。