依頼人は午前九時にやってきた
封筒に入った合意書
蝉の声が喧しい夏の朝、事務所のドアがぎぃと音を立てて開いた。そこに立っていたのは、中年の女性。スーツの袖口からのぞく手首には、重たそうな数珠が巻かれていた。彼女は封筒を差し出すと、無言で椅子に腰を下ろした。
「この合意書、見ていただけますか?」そう言われて開いたその書面には、数ヶ月前に結ばれたという離婚協議の合意内容が記されていた。だが、そこには何か引っかかるものがあった。
気になる一文と違和感
第八条の妙な書きぶり
「協議の結果、双方の同意により以下の財産分与を行うものとする」という文言までは普通だ。しかしその後、「両者はいかなる形であれ相手方に対する復讐その他の報復的行為を行わないことをここに誓約する」と続いていた。
「ん?」私は思わず声を漏らした。通常、このような表現は見ない。法律文書に“復讐”などという言葉が書かれること自体、異例だ。
サトウさんの冷静な推理
鋭い視点で一刀両断
「これ、たぶん相手は復讐されるのを恐れてたんでしょうね」パソコンのキーボードを叩く手を止めず、サトウさんがぼそりと呟いた。
「ということは、復讐されても仕方ないようなことをした可能性がある…?」と私が言うと、彼女は一瞬こちらを見た。「その程度の推理で疲れたんですか?」まるでサザエさんのカツオを叱るワカメのような口ぶりだった。
元夫の転落死と疑惑
偶然かそれとも必然か
その日の夕方、依頼人の元夫がマンションの屋上から転落して死亡したというニュースが入った。警察は事故として処理する構えだったが、私の胸には奇妙なざわつきが残った。
合意書にあった「復讐しない」という文言。それは逆に「復讐の理由がある」と読めなくもない。しかも、それを文書化するほど怯えていたという事実。
遺品から出てきたもう一通の合意書
偽造と本物の境界線
元夫の遺品整理中に、もう一通の「合意書」が発見された。日付も内容もまったく同じだが、復讐の条項がない。しかも署名も印影も微妙に異なっていた。
「誰かが合意書を偽造して提出した…?」私の背筋が凍った。つまり依頼人が見せたものは、意図的に“復讐”の文言を盛り込んだ偽の書類だった可能性がある。
筆跡と印影を追って
地味な作業に隠された真実
地元の印章店を回り、印影の出所を洗った。三軒目でようやく一致するものが見つかった。それは依頼人の母親が十年前に作成した実印と一致した。
「やれやれ、、、真夏に外回りとは、司法書士って地味で汗くさい職業だよな」と嘆いている私の横で、サトウさんは「でもそれで真実に近づいたんだから、無駄じゃなかったですね」とだけ言った。
依頼人の真意と隠された動機
恨みは静かに積もる
事情聴取に応じた依頼人は、自らが合意書を偽造したことを認めた。「あの人は、離婚しても私の人生を支配しようとした。私はただ、自分を守りたかっただけ…」
彼女の目には涙はなかったが、その語り口は、まるでルパン三世の峰不二子のように冷たく、したたかだった。
事件の終息と心のざらつき
正義はいつも明快ではない
警察は依頼人を文書偽造の容疑で書類送検したが、元夫の死との関連性は立証できなかった。結局、事件は「事故」のまま処理された。
だが、心に残るのは、誰も裁けなかった感情と、その結果としての悲劇だ。紙の上の言葉は、時に人の命を左右するほどの力を持つ。
そしてまた日常へ
事務所に響く蝉の声
「ところで先生、印影の鑑定で領収書もらいました?」とサトウさん。私は顔をしかめてバッグを探る。「あっ、またうっかり、、、」
「やれやれ、、、」という私の呟きを聞きながら、彼女は無言でレシートの束を差し出した。その手際の良さは、まるでコナン君のようだった。