提出予定の恋心は消えた

提出予定の恋心は消えた

はじまりは一通の遺言書依頼

「これ、今日中に提出してください。私の命日になるかもしれませんので」
男は静かにそう言うと、机の上に茶封筒をそっと置いた。中からはピンク色の便箋が覗いていた。
見た目はただの恋文にしか見えない。しかし、彼はそれを「遺言書」だと言い張った。

机に置かれた茶封筒とピンク色の便箋

茶封筒には「重要」とだけ書かれていた。私はうっかりそれを茶菓子の伝票かと思い、しばらく放置してしまった。
サトウさんに睨まれてようやく中を確認したが、そこに書かれていたのは法的効力のある文書とは到底言えない代物だった。
「これ、本当に遺言書なんですかね……?」とつぶやくと、彼女は鼻で笑った。

「今日中に提出を」そう言い残した依頼人

依頼人の名前は伏せるが、その人物は既に数件の相続で関わりのあった常連だった。
いつも何かと恋愛沙汰を匂わせるが、実際のところモテている様子はない。
「恋心も遺産になると思ってるんでしょうかね」と、サトウさんが鋭い毒を吐いた。

遺言の内容に隠された違和感

遺言書には財産分与の文言がない代わりに、「彼女に想いを伝えたい」とだけ書かれていた。
対象者の氏名はフルネームで記されているが、戸籍上の関係性も、婚姻もない。
これは法務局で受理されるのか?いや、それ以前にこれは遺言なのか?

財産分与よりも大事なこと

奇妙なことに、資産や不動産に関する記述が一切なかった。
代わりに手紙のような言葉が連なっていた。「君の笑顔に救われた」とか「遅れてきた愛」など……。
司法書士としては眉をひそめる内容だが、人としては少し胸にくる。

相続対象者が一人多い謎

戸籍附票と照合すると、対象者は3人で十分なはずだった。だが文書には見慣れない女性の名前が書かれていた。
「この人、誰ですか?」と訊ねても、依頼人は微笑むだけだった。
なにかを隠している。それも、わざとこちらに探らせるような――ルパン三世の遺したヒントのような。

サトウさんの冷静な指摘

「そもそもこれ、手続きじゃなくて、私信じゃないですか」
彼女はあっさりとそう言った。
確かに、封筒には法的な書式も押印もない。だが、それでも依頼人は今日提出しなければ「意味がない」と言っていた。

戸籍附票と住民票を照合してみた結果

調査の結果、その「追加の女性」は既に10年前に死亡していた。
となると、この手紙は死人に宛てたものなのか。もしくは、彼女と名乗る別人が存在するのか。
「やれやれ、、、またやっかいな案件だ」とため息をついた私に、サトウさんは「あんたの恋心もいつか提出してくださいね」と皮肉った。

「恋心って、法的には無効ですよね?」

「無効もなにも、そんな登記事項はありません」と私は答える。
「じゃあ、これは何の書類ですか?」と彼女が聞いた時、私は言葉に詰まった。
感情が法に勝てないのは知っている。だが、それでも誰かに残したい想いは存在するのだ。

手続きは順調のはずだった

必要書類を整え、あとは封筒を法務局に提出するだけ――のはずだった。
しかし、提出直前になって依頼人と連絡が取れなくなった。電話はつながらず、自宅ももぬけの殻だった。
これはただの手続きミスではない。誰かが故意に妨害している可能性がある。

提出直前に消えた依頼人の連絡先

電話番号は使用停止、メールもブロックされていた。
手紙のような文章を渡して姿を消した依頼人……。
彼はどこへ行ったのか。そして、何から逃げていたのか。

封筒の中身がすり替えられていた

念のため中身を再確認したところ、そこにあったはずのピンクの便箋が、白紙に差し替えられていた。
誰かが封を開け、文面を奪い取ったのだろうか。
あるいは、それ自体が最初から幻想だったのか――。

シンドウの地味な聞き込み調査

探偵でもない私が、地味に近所を回って情報を集める。
なんだかコナンくんの小五郎のようで情けない。
でも、最後に事件を解くのは往々にして、こういううっかり者なのだ。

近所のクリーニング店が語った証言

「いつも香水つけてたわね、あの人」
それは件の便箋に残っていた香りと一致していた。
彼女は確かに存在した。そして、依頼人はその記憶とともに便箋を遺したのだ。

封筒に残された香水のにおい

仄かに香るバニラの香り。
それは、依頼人の過去と結びついた恋心そのものだった。
そしてその香りこそ、彼が遺そうとした「最後の証人」だったのかもしれない。

思いがけない再会と真実

駅前のベンチに腰かける男性の姿を見て、私は思わず声を上げた。
「どこ行ってたんですか!」
彼は穏やかに笑いながら、こう言った。「最後に彼女の墓前に行ってきたんです」

過去に関係していた女性の登場

彼が語るには、死んだはずの女性はかつての恋人で、別れた後も忘れられなかったという。
そして今、その娘が成長して依頼人の前に現れた。彼女こそが新たな「恋心」の宛先だったのだ。
複雑な感情と、法的に絡まる糸。まるで少年漫画の複線回収のようだった。

「あの人は、死ぬつもりだったんです」

依頼人の姿が消えた数時間、彼は自殺を考えていたという。
だが、最後にもう一度だけ恋心を届けようと思い直した。
私が書類を届ける姿を想像しながら、彼は一人生き直す決意をした。

恋心が遺言書に変わった日

彼はもう一度ピンクの便箋を書いた。だが今回は、恋心ではなく感謝と謝罪の文言だった。
それは法的効力は持たなかったが、人としての最後の言葉だった。
そしてその想いは、確かに誰かの心に届いた。

本当に遺したかったのは感謝の言葉

遺産でも、地位でも、恋ですらない。
ただ「ありがとう」と言いたかった。それだけなのだ。
提出期限に間に合ったその便箋を、私は黙って封筒に収めた。

遺産の行方と宛先のない手紙

結局、法的には何も残らなかった。相続も発生しなかった。
けれど、そのピンクの手紙は今も彼の机の中にしまわれている。
サトウさんは「これ、ファンタジーですね」と呟いた。

やれやれ、、、今日もまたギリギリだった

私は手紙を抱えて、閉館5分前の法務局に駆け込んだ。
受付では断られた。これは書類ではなく、ただの手紙だからだ。
それでも、誰かの想いを運ぶことは、司法書士の仕事でもあると信じたくなった。

封筒を持って走る司法書士

足がもつれ、息が切れる。それでも走った。
「やれやれ、、、俺もまだ若いな」と笑ってみせた。
それを見たサトウさんは、小さく頷いた気がした。

塩対応の中にあった少しの優しさ

「今日はよく頑張りましたね」と、サトウさんが一言だけ言った。
私は照れ隠しに笑って、机に座りなおす。
その日、私のデスクにはひとつだけ、チョコレートが置かれていた。

書類と想いの提出期限

法の世界には期限がある。しかし、想いには期限がない。
それでも人は、どこかで「提出」しなければならない時がある。
それが恋であれ、悔いであれ、あるいは感謝であっても。

法務局の閉まる5分前

あの時間、あの空気、あの封筒。
恋心も、遺言も、法的効力も関係ない。
それでも私は走ったのだ。

ピンクの便箋だけが風に舞った

封筒を開けた時、ひとつの便箋が風に乗って飛んでいった。
誰にも読まれず、誰にも触れられずに。
それがきっと、彼の本当の恋心だったのかもしれない。

エピローグ 恋心は記録されない

登記簿にも、戸籍にも、契約書にも、恋心の項目はない。
それでも人は、誰かに伝えようとし、遺そうとする。
たとえそれが、提出されないまま終わるとしても。

書類に残らない想いもある

だからこそ、我々司法書士の目に見えない仕事がある。
想いを拾い、少しだけ形にしてあげること。
それが、私の中で「役に立つ」ってことなのかもしれない。

それでも人は誰かに遺そうとする

法には書けない感情を、誰かに届ける方法を、きっと人は探し続ける。
そして私はそのお手伝いができるなら、少しくらい不器用でもいいと思う。
やれやれ、、、明日もまた、誰かの気持ちが事務所に届くのだろう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓