午前九時の依頼人
古びたスーツと震える声
事務所のドアが軋む音とともに、ひとりの男が姿を現した。七十代くらいの老人で、よれたスーツに黄ばんだワイシャツ。手には折れ目の多い書類の束を抱えていた。声も小さく、最初は何を言っているのかよく聞き取れなかった。
「この家を売りたいんです、息子の代わりに」と彼は言った。差し出されたのは、委任状だった。だがその筆跡には、どこか作為的な不自然さが漂っていた。
古紙のようなそれを受け取りながら、僕の背中には薄い寒気が走った。また厄介な案件が来たかもしれない――そんな予感だった。
戸籍の奥に潜む違和感
戸籍謄本には、確かに息子と父親の関係が記されていた。息子は東京に住み、父親が法定代理人として登記を行う旨が書かれている。だが、同封された印鑑証明書の日付が古すぎた。しかも、息子が成年に達しているにもかかわらず、父が代理で売却するという構図にも腑に落ちないものがあった。
サトウさんがファイルをめくりながら、低くつぶやいた。「この息子さん、生きてますよね?なのに委任状だけで進めようとしているのは、変です」彼女の目は、鋭く鋼のようだった。
やれやれ、、、これはまた面倒な匂いしかしない。だが、逃げるわけにはいかなかった。
サトウさんの沈黙
確認作業は三度目まで
「委任状、スキャンしておきます」とサトウさんが言い、慣れた手つきでスキャナを動かす。彼女が声を発しないときは、大抵なにかに集中している証だ。僕は戸籍を読み返し、物件の登記簿を取り寄せた。
売ろうとしている家は、十年前に亡くなった祖父の名義のままだ。つまり、まだ相続登記がなされていない物件。父親が売ると言っても、それは息子の名義でもなんでもない。これはつまり、他人の物を勝手に売ろうとしているのではないか。
「相続人、全部で五人です。息子さんだけじゃないですね」サトウさんの声が冷たく響いた。
委任状の筆跡
見慣れた癖のある「山」
僕は何度も見ることになる。「山」という字の書き方だ。三画目の角度が独特で、まるで波打っているようだ。この筆跡、どこかで見た気がする。そうだ、去年の成年後見申立書にあった。
「サトウさん、これとこれ、照合できる?」そう言って、僕は過去の書類箱からファイルを取り出した。彼女は無言でスキャンし、AI筆跡判定ツールにかけた。画面に出た結果は――
「筆跡一致、確率92%。同一人物の可能性が高いですね」と彼女が答える。つまり、今回の委任状も、父親自身が書いたもの。息子の筆跡ではない。
故人が買った中古住宅
登記簿の主が今も生きている
ところが、さらに奇妙なことが判明する。祖父とされた人物、死亡届が出ていない。戸籍に「除籍」も「死亡」もなく、むしろ介護保険の履歴が生きている。
「もしかして、、、この人、施設に入れられたまま、生きてるんじゃ?」サトウさんの声が低くなった。
司法書士としての直感が告げる。これはただの誤認ではない。意図的に祖父の存在を隠し、相続登記もせず、代理人として家を売ることで、利益を独占しようとしている。
司法書士の仮説
無断の代理行為か共犯か
僕は仮説を立てた。父親は祖父の認知症につけ込み、そのまま死亡したことにして手続きを進めようとしている。委任状は偽造。息子は関与していない、いや、気づいていない可能性もある。
「これ、警察に行きましょうか」と言いかけたが、まだ確証が足りない。僕の役目はまず、登記を止めることだ。
「まずは登記を保留にして、関係者全員に通知出しましょう」サトウさんがすでに通知書を3通印刷していた。
小さなサインの罠
サトウさんの追及
翌日、事務所に戻ってきた父親に対し、サトウさんが静かに尋ねた。「息子さんに、この委任状の件、確認しましたか?」男は言葉を濁した。
「息子さん、今海外勤務中でして、、、代理でやるしかないんですよ」その目は泳いでいた。僕は机に突っ伏したくなる気分をこらえて、苦笑した。
やれやれ、、、そのセリフ、昔『ルパン三世』の銭形警部も似たような言い訳してたな。真実は、いつも一つとは限らないが、嘘はたいていひとつだ。
判子の記憶
保管庫に残された印鑑証明
法務局から連絡があった。「同一名義での委任状が複数届いています」とのこと。しかも、一部はすでに他の司法書士を通じて申請済みだった。
僕は以前の印鑑証明の控えと照らし合わせた。そこには明確な違いがあった。印影が違う――つまり偽造だ。
それが決定打となった。これで登記は止まる。あとは法的措置が進むだけだ。
法定代理人の誤算
裏切られた信頼
父親は「家族のためだった」と語った。だが、法を越えた“善意”は、たとえ家族の中であっても許されない。信頼を裏切るという点で、もっとも重い罪だ。
結果的に祖父は生きていた。施設で静かに暮らしており、この件には一切気づいていなかったという。
悲劇にはならなかったが、滑稽で、そしてどこか切ない事件だった。
真相とその後
不動産は戻らずとも正義は届く
登記申請は却下。代理人である父親は法的責任を問われることになった。祖父の意思に基づいた真っ当な相続手続きが、ようやく進むことになった。
その後、息子が日本に戻り、事務所に菓子折りを持って謝罪に来た。礼儀正しく、誠実そうな青年だった。すべてを知らされていなかったらしい。
家族の絆は、薄皮一枚で成り立っているのかもしれない。法律という網がなければ、人は簡単にそれを踏み越える。
午後六時の事務所
「シンドウさん、珍しく冴えてましたね」
「たまたまだよ。風向きが良かっただけ」僕は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。カレンダーを見ると、もう月末が近い。請求書の山が頭をよぎる。
「やれやれ、、、次は平和な贈与登記でも来てくれないかな」サザエさんの波平のように嘆いたら、サトウさんに「年寄りくさいです」とバッサリ斬られた。
僕は苦笑いしながら、冷めたコーヒーをすする。今日もなんとか、司法書士としての一日が終わった。