謎の依頼人と戸籍謄本の違和感
午前10時、古びた事務所のドアがきしんだ音を立てて開いた。灰色のスーツに身を包んだ男が、まるで舞台の幕が上がるように現れた。彼は名乗りもせず、分厚い戸籍謄本を机に置いた。
「この内容が本物かどうか、調べていただきたい」と男は言った。声は落ち着いていたが、目は泳いでいた。私はその瞬間、背中に寒気を感じた。いやな予感しかしない。
不自然な筆跡と古びた印鑑
謄本には、ところどころ明らかに異なる筆跡が混ざっていた。特に婚姻欄と改姓欄。さらに押印された印鑑の一部は、すでに廃止された旧式のものだった。
「これは、いつの時代の手口ですかね」と呟くと、隣でサトウさんが小さくため息をついた。「印影のズレも酷いです。小学生の偽造レベルですね」と冷たく言い放った。塩対応にもほどがある。
戸籍の「続柄」に潜む違和感
さらに目を引いたのは、依頼人が「長男」と記載されているにもかかわらず、出生届の届出人がまったく別の人物になっている点だった。しかもその人物は、この家族の戸籍には存在しない。
家系図の中に紛れ込んだ異物。それは、いわば「戸籍版キャッツアイ」。美術品のように偽装された身分が、淡々と記されていた。
サトウさんの冷静な観察
「この人、たぶん本当の長男じゃないですね」とサトウさんが呟いた。私がコーヒーをすすっている最中だったので、思わず吹き出した。
「どうしてそう思う?」と聞き返すと、彼女はパソコンの画面を指差した。戸籍だけでなく、住民票の移動履歴まで精査していたらしい。容赦ない分析力だ。
妙に詳しい住所変更履歴
依頼人は過去10年の間に4回も住所を変えていた。しかも、いずれも名字が変わるたびに。偶然とは言い難い規則性だった。
「これはね、偽装の香りがぷんぷんしますよ。まるでルパン三世が変装を繰り返してるみたいにね」とサトウさん。あんた、俺よりずっと探偵向きだよ。
「あの人」の死亡日が二度ある理由
さらに驚くべきは、ある人物の死亡日が戸籍によって二通り存在していたことだった。改製原戸籍と現行戸籍、どちらにも同じ名前の人物が記されているのに、死んだ日が違うのだ。
これはただの記載ミスか? いや、明らかに意図的な書き換えがある。もはや戸籍そのものがトリックアートになっていた。
司法書士シンドウの戸惑い
やれやれ、、、またややこしい案件だ。思わず机に突っ伏したくなったが、そんな暇はない。依頼人は今日中に回答を求めているらしい。無茶言うな。
とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかない。司法書士の意地ってやつが、背筋をしゃんとさせる。
嘘か本当か 遺言書の真贋
謄本に添えられていたのは、手書きの遺言書だった。「すべての財産を長男に譲る」とある。しかし、その筆跡は明らかに依頼人のものに酷似していた。
「自作自演ってやつか」と呟くと、サトウさんが「幼稚園児の演劇の方がマシですよ」と言い放った。もう少し優しくしてくれ。
元野球部の勘が働く
こんな時にこそ、野球で鍛えた観察眼が役に立つ。あの頃はサイン盗みも反則スレスレだったが、今はこっちが正義側だ。
「この謄本、別の事件でも見たことがある気がする」記憶の糸をたぐっていくと、2年前の養子縁組詐欺事件の一件に辿り着いた。
印鑑証明書が語る過去
調べを進めると、印鑑証明書の日付が戸籍の記載と数日ずれていた。偽造印の使用を裏付ける、ささやかな証拠。だがそれが命取りになるのが、この仕事の面白いところだ。
まるでシャーロックホームズが煙草の灰から銃の口径を見抜くように、小さなズレが大きな嘘を暴いていく。
旧姓の痕跡に込められた告白
さらに古い住民票を取り寄せたところ、依頼人は過去に母親の旧姓を名乗っていた時期があった。それは法律上の養子縁組の前のことだった。
彼は本当に血縁ではなかったのだ。戸籍上の長男という地位は、誰かが彼に与えた「救い」だったのかもしれない。
役所を巡る地味な聞き込み
私は地元の役所を何度も訪ね歩いた。昔ながらの担当者たちは、最初は渋い顔をしていたが、徐々に口を開いてくれた。
「そういえば、あのときの手続き、妙に急いでましたね」職員の一言が、事件の核心を指し示していた。
本籍地の職員が漏らした一言
「確かあの人、奥さんの死後すぐに養子を迎えたはずですよ」その証言が、戸籍の不自然さとリンクした。誰かが意図的に空白を埋めたのだ。
サトウさんは静かに頷いた。「その“誰か”が、依頼人本人だったという可能性は?」核心に迫る言葉が、部屋の空気を変えた。
消された住民票の裏にある意図
古い帳簿のコピーから、削除された転入記録が見つかった。そこには依頼人の本名とは異なる名前が記されていた。二重生活。二つの戸籍。
「戸籍の中のもう一人」まさにその存在が、すべての鍵を握っていた。
嘘つきの動機と切ない結末
依頼人の正体は、亡き女性の内縁の夫だった。法律的な地位を求めて、彼は偽装の戸籍を作り上げたのだ。その目的は、彼女の遺した家を守ることだった。
「誰にも渡したくなかったんです、彼女との思い出だから」涙ながらに語る姿に、私は怒ることができなかった。
財産よりも守りたかった記憶
戸籍は嘘だったが、気持ちは本物だった。それが法に触れていることは間違いない。だが、罰の程度をどう扱うかは、これまた難しい問題だ。
私は彼に告げた。「後悔してるなら、今からでもやり直せる」と。自分でも何を言ってるのか、よく分からなかった。
書類に刻まれたもう一つの人生
戸籍という紙の中に、誰かの人生がもう一つ隠れている。私はそれを暴いた。でも、それが正義だったのかは今も分からない。
サトウさんがぽつりと呟いた。「きれいごとじゃ済まないですよね、戸籍って」全くだ。やれやれ、、、本当に疲れる仕事だ。
事件の終わりといつもの日常
事件は終わった。依頼人は役所に出向き、すべてを白状した。私は報告書をまとめて、ほっとしたのも束の間、机の上に次の依頼書が置かれていた。
「シンドウ先生、今日はあと三件です」サトウさんの冷たい声が響く。ああ、また紙と格闘の日々か。
サトウさんの一言が心に刺さる
「戸籍も人も、簡単には整理できませんね」そんな彼女の言葉に、私は小さく頷いた。人の人生なんて、紙一枚じゃ収まりきらない。
それでも私は、今日もまた、誰かの人生の端っこをのぞき込む。うっかりと、だけど誠実に。
それでも俺は紙と格闘し続ける
書類は増えるばかり。謄本、住民票、遺言、委任状。私はそれを読み解き、書き換え、裁判所に届ける。その繰り返しだ。
でもきっと、その中に誰かの「救い」もあると信じている。やれやれ、、、そう思わなきゃ、やってられないよな。