名前を持たぬ依頼人

名前を持たぬ依頼人

名前を持たぬ依頼人

朝の一通の電話

いつも通りの朝だった。コーヒーを片手にメールチェックをしていたところ、一本の電話が鳴った。表示は非通知。こんな時点でロクな相談じゃないと、体が勝手に察知して肩が重くなる。

「登記をお願いしたいのですが……」という男の声は妙にくぐもっていた。急ぎの依頼らしく、顔を出さずに委任状だけを渡したいという。どうにも引っかかる。

姿を見せない依頼人

玄関のポストに封筒が差し込まれていた。誰の姿も見えない。封筒には委任状と身分証のコピーらしきもの、そして簡単な登記申請書類が入っていた。

「まるで怪盗キッドからの予告状みたいですね」などと呟いたら、サトウさんに冷たい目で睨まれた。やれやれ、、、今日も塩対応だ。

委任状に書かれた奇妙な名前

委任状に記載された名前は「長谷川一郎」。だが、どこかで聞き覚えがある。思い出せないのがもどかしい。しかも字体が一定ではない。不自然な筆圧の差がある。

「この署名、誰かのを真似してる感じしません?」とサトウさん。彼女が言うと全てが正解に見えるから不思議だ。

サトウさんの冷ややかな推理

「この長谷川一郎って、たしか前に遺産分割の依頼をしてきた依頼人の親戚ですよ。戸籍の束にありました」

彼女は無表情で過去のファイルを開いて、該当する戸籍を抜き出した。そこには確かに“長谷川一郎”の名があった。が、本人は五年前に亡くなっている。

登記申請に潜む小さな違和感

申請書の「登記原因」欄にも不備があった。「売買」と記載されていたが、添付された売買契約書には売主の署名がなく、印鑑も無効なもの。

これは、単なる書類の不備では済まされない。明確な意図をもって作られた「作り物」だ。

元野球部の嗅覚が騒ぐ

「これ、俺がキャッチャーだった頃に相手のサイン盗んでたのと同じ臭いがする」そんな例えしかできない自分が情けないが、経験則が言ってる。これはやばいやつだ。

裏を取らないと。いや、裏を取るまでもなくこれは完全にクロの香りが漂っている。問題は誰が、何のためにやっているかだ。

通帳と印鑑の行方

管轄の金融機関に電話をかけ、事情を話した。預金口座の名義は確かに「長谷川一郎」だが、ここ最近になって高額な出金が繰り返されていた。

同時に、実印の印鑑登録証明書が偽造されている疑いも浮上。あの封筒に入っていた証明書も精巧だが、本物ではなかった。

賃貸マンションの空室と謎の住人

男が委任状に記載していた住所を訪ねた。そこは駅近のワンルームマンションだったが、不動産屋いわく「半年以上前から空室」とのこと。

しかし近隣の住人の話では「夜中に誰かが出入りしてる」との証言がある。管理人から防犯カメラの映像を借りることができた。

本人確認の罠と旧姓トリック

映像に映っていたのは、数年前に戸籍に出てきた別人だった。旧姓を使い、他人の名前で登記手続きを進めようとしていたのだ。

この登記、本人確認が甘ければスルッと通ってしまう。まるで「キャッツアイ」の三姉妹が証拠を残さず宝石を盗むように。

偽名で手続する動機とは

調べを進めると、男は長谷川家の遠縁。亡くなった一郎の財産を狙っていたが、相続人になれなかった。そのため偽名を使い、委任状を偽造して登記を試みたのだ。

サインは過去の戸籍謄本を参考に練習したらしい。執念深いが、詰めが甘い。

管理人の証言が揺さぶる真実

管理人がふと思い出した。「そういえば先月、“役所に提出する書類を書くから”って妙な男が部屋で何かしてたよ」。

それが決め手になった。警察と連携し、男の身柄は確保された。部屋からは複数の委任状のひな形と印鑑が見つかった。

司法書士が放つ決定的な質問

「あなたの名前は?」と最後に尋ねた。男は「……長谷川です」と答えたが、戸籍にも住民票にもその人物は存在しなかった。

「あなたは誰の人生を演じていたんですか?」と続けると、男は崩れるように椅子に座り込んだ。幕が下りた。

やれやれという間に手錠が鳴る

取調室で手錠の音が鳴るのを聞いて、少しだけ安堵した。これでまた、変な登記を止められたという達成感がこみ上げる。

「やれやれ、、、まったく油断も隙もないな」独りごちる声は、誰にも届かない。

サトウさんの塩対応に今日も凹む

「ご苦労さまでした、でも今回は早かったですね」そう言いながらもサトウさんの表情は一切崩れない。こちらが笑いかけても反応なし。

「せめて、ねぎらいの言葉のひとつぐらい……」と呟くと、「それ、独り言ですよね?」と返された。ぐうの音も出ない。

名前の重さと紙一枚の責任

委任状は紙切れかもしれない。だが、それに名前を記すことの重さを知る者だけが、信頼に足る手続きを導けるのだと痛感する。

今日も、俺たち司法書士は名前と向き合い、誰かの人生の一部を守っている。

静かに閉じる一件のファイル

デスクの上にあるファイルを静かに閉じた。表紙には、赤ペンで書かれた文字。「完了」。

次の電話が鳴るまでは、少しだけ静けさが続いてくれればいいと願った。だが、その願いはすぐに裏切られるのだった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓