朝の依頼人と揺れる影
その朝、事務所のドアが開いたと同時に、涼やかな風が吹き込んだ。長い髪をまとめた女性が一人、手に古びた封筒を握りしめて立っていた。差し出されたそれには、遺言書と書かれた文字があった。
「父が亡くなりまして……でも、相続人に私の名前がないんです」と彼女は言った。奇妙な話だった。戸籍を確認すれば済むはずのものに、何か不穏な影がちらついていた。
「とりあえず、拝見しましょうか」と言って受け取った封筒の重みが、妙に胸に残った。
曇った眼差しの女
彼女の目には、何かを探しているような迷いがあった。口元に微かに残る関西訛り。話す内容は丁寧だが、どこか警戒している様子もうかがえる。差し出された戸籍謄本には、確かに彼女の名はなかった。
「けど、間違いなく私が娘なんです。母が…昔、事情があって」そう口にする彼女の手が震えていた。表面上は落ち着いていても、内面には焦燥が渦巻いているようだった。
やれやれ、、、また厄介な仕事の予感がした。
「名義が違う」と言う遺言書
遺言書の文面には「全財産を長女ミユキに相続させる」とある。だが、依頼人の名は「清水麗華」。一致しない。戸籍を辿っても「ミユキ」という名前は見当たらない。
「これは仮名だったのでは?」と彼女がつぶやく。その言葉に、こちらも鼻をこすりながら考える。「仮名で遺言なんて、、、昔の少女漫画じゃあるまいし」と内心で呟きながらも、思い当たる筋がないわけでもなかった。
コナン君ならすぐ気づくのだろうが、こちとら凡人司法書士である。
戸籍から消えた人物
法務局の端末を叩いても、「ミユキ」の文字は一切出てこない。だが、不思議なことに、昭和60年ごろに一度だけ「養女縁組」の形跡が見つかった。だがその後すぐ除籍されていた。
「それって…」とサトウさんが呟く。「誰かが意図的に消したってことですよね」
こちらが返事をする前に、彼女はすでに端末を操作し、画面に出たある地名を指差した。「この辺り、昔住んでたって言ってました」
被相続人にはもう一人いた
調べを進めると、遺言者には前妻との間に一人娘がいた記録が古い除籍簿から発見された。それが「宮木美雪」――読み方は「ミユキ」だった。漢字が違えば戸籍システムでは追えない。
「それが…私の旧名です」依頼人は静かに告白した。「母が離婚してから、私の名字も変わって…」
つまり、戸籍の名と遺言書の名は、同一人物だったわけだ。だが、証明は簡単ではない。これがフィクションならDNA鑑定でもするところだが、現実はもっと地味で面倒くさい。
戸籍の空白を埋める手がかり
一通の戸籍附票が、決定的な証拠になった。昔の住所、引越し履歴、そのどれもが一致し、さらに学校の卒業証明書と旧姓の名前が繋がっていた。
「養女縁組→離縁→改姓→除籍」、その複雑な流れの中で、彼女の存在は法的には“薄まって”しまっていた。しかし、紙の証拠が揃えば、それを立証することはできる。
サトウさんがポツリと「戸籍って、時々サスペンスよりややこしいですね」と言った。
サトウさんの冷たい推理
「相続人が“いない”ように見せたかったんでしょうね」と、冷静にサトウさんは分析した。「全部を遺贈にすれば、特定の誰かに渡すことができますし」
それを仕組んだのは、後妻だった。後妻が提出してきた戸籍一式には、意図的にミユキの情報が抜かれていたのだ。提出する戸籍に「義務」はあるが「完全性」をチェックする機関はない。
「よくある抜け道です」とサトウさんは平然と語るが、こちらは冷や汗だった。やれやれ、、、本当にこの人は頼りになる。
メロンパンと戸籍附票
調査の合間、サトウさんがコンビニの袋からメロンパンを取り出して一言。「証拠が見つかったお祝いにどうぞ」
半分に割って渡されたそれをかじりながら、「なんだかルパン三世の次元と五右衛門みたいだな」と思った。こっちはひたすら銃撃戦ならぬ書類戦、隣には斬鉄剣みたいなロジックを振るうサトウさん。
ただし、笑顔はない。あくまで塩対応だ。
女の名字が動いた理由
彼女の母は再婚し、娘の名前も変えた。その時点で旧姓「宮木」は戸籍から姿を消す。だが、遺言書を書いた父は、最後までその旧名で覚えていた。それだけが、父の愛情の証だったのかもしれない。
「改姓しても、親子関係が消えるわけじゃないんですね」依頼人の言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
いや、別に泣いてなどいない。メロンパンの粉が目に入っただけだ。
最後に現れた本当の相続人
全ての証拠が揃ったころ、後妻は事務所にやって来て、自分の非をあっさり認めた。「自分が全部もらえると思ってた」と言ったその顔は、どこか空虚だった。
「あの子は彼にとって過去の傷だったと思ってたの。でも、遺言を読んだとき、私には勝てない人なんだってわかったの」
去り際、彼女は「せめて遺品は一つだけ…」と、古い写真をそっと持ち帰った。
影を名乗る女の涙
相続人として認められた麗華さん――いや、美雪さんは、「やっと父に会えた気がする」と小さく笑った。彼女の目に光るものが、どこか遠くの過去を照らしているようだった。
戸籍という記録の中では、彼女は一度“影”になっていた。それでも父は、遺言という形でその影に光を当てていた。
静かに、すべてが終わっていった。
相続登記完了と静かな別れ
数週間後、登記は完了した。新たな権利者として登録されたのは、美雪さんの新しい名前「清水麗華」だった。
サトウさんが手続完了の報告を淡々と読み上げ、「以上です」と一礼する。その姿に、少し誇らしげなものを感じた。
「やれやれ、、、また妙な依頼が来ないことを祈るよ」そう呟いて、湯呑みの茶をすすった。次の事件がすぐそこまで来ているとも知らずに。