印影に潜む嘘
役所帰りの午後、僕は依頼人から受け取った封筒をぼんやりと見つめていた。いつものように手続きが淡々と進むと思っていたが、今回は様子が違った。遺産分割協議書に押された印影に、どうしても違和感がある。
サトウさんが机の向こうから冷静に言った。「この印鑑、少し潰れてますね。普通は朱肉のつき方でもっと輪郭がはっきりしますけど。」その目はすでに事件を見抜いていた。
朱肉に残る違和感
遺言書に捺された印影は、微妙に潰れていた。普通の人なら見過ごす程度の差だが、長年書類を扱ってきた僕の目には、はっきりとした“異物”に映った。
「コピーでもとったんですかね?」と聞くと、サトウさんは首を横に振った。「それにしてはインクのにじみが均等じゃないです。もしかしたら……」。彼女はすぐにパソコンに向かって、印鑑登録証明書の番号を調べ始めた。
古びた遺言書とひとつの印鑑
遺言書は5年前の日付があり、内容も簡潔だった。すべての財産を長男に譲ると記されていた。依頼人はその長男だったが、どこか様子が落ち着かない。僕はその挙動を心にとどめつつ、過去の登記資料に目を通した。
すると、2年前にも似たような手続きがなされていたことに気づいた。内容は違えど、使われていた印影が今回のものと「ほぼ一致」していた。だが当時の名義人は母親だったはずだ。
サトウさんの塩対応が光る
「もしかして、使い回してます?」サトウさんが冷ややかに言う。長男の顔色がわずかに変わった。まるでカツオがサザエさんに怒られた時のように、バレたかという顔だった。
「それは……、いや、そんなことは……」と苦しい言い訳が続く。サトウさんは目も合わせずに、机の引き出しから検証用の拡大鏡を取り出した。
二通の契約書とひとりの依頼人
押印された契約書が実は二通あることがわかった。一通は役所に提出済みの写し、もう一通は事務所保管用。だが、印影が微妙に異なっていた。朱肉の付き方、押し方、全体の角度……。
「これは別人が押したか、もしくはゴム印でしょうね」とサトウさんが分析した。僕のうっかりが、ここでようやく役に立つ番がきたらしい。
父の判子か息子の陰謀か
話を聞くうちに、どうも長男が父親の判子を無断で使った可能性が浮上してきた。父親はすでに認知症で、意思能力が疑わしい状態。つまり、今出されている遺言書の法的有効性に問題がある。
しかも、実際にその印鑑が登録された証明書と照らすと、登録抹消された記録があった。これはもう、言い逃れできない。
印鑑登録証明書の落とし穴
役所に確認すると、印鑑登録はすでに亡くなった時点で自動的に失効していた。だが、長男が何らかの手段で以前の証明書を再利用していたことが判明した。
「古い書類は慎重に確認しないと危険ですね」と言いながら、サトウさんは淡々とデータを整理していく。僕は書類の山に埋もれながら、自分の視力の衰えに軽く落胆していた。
サザエさんのハンコ事情と今回の相違
「サザエさんでさ、よくノリスケが勝手に書類をいじるシーンあるでしょ?」と僕が言うと、サトウさんが軽く睨んだ。「昭和の例えですね。でも的確です」
本件の長男も、まさに“昭和的”な感覚で、親のものを勝手に使っても大丈夫だろうとタカをくくっていたようだ。だが現実は、そう甘くない。
裏口から届いた押印済の謎書類
さらに調査を進めていると、郵送で送られてきた押印済みの書類が、不自然なタイミングで届いていたことがわかった。差出人の名前は父親のままだが、消印の日付は死亡後。
「これはもう、完全にアウトですね」とサトウさんが断言した。やれやれ、、、ここまでくると、あとは証拠をまとめるだけだ。
隠された手続きの真相
話は司法の場に持ち込まれる前に、長男が全面的に非を認めて幕を閉じた。どうやら内々に済ませたかったらしく、穏便に書類の撤回と謝罪で手を打つことになった。
僕の役目は、その撤回手続きのサポートだった。正規の手続きを踏んで。
やれやれ、、、どうしてこんなことに
夕暮れの事務所で、一人ため息をつく。世の中には、どうしてこんなに“うっかり”したフリをする悪意が多いのだろう。
「シンドウさんの出番、最後だけでしたね」とサトウさんがニヤリとする。やれやれ、、、とは言ったが、まあ、最後に活躍できたからよしとしよう。
最後に見つかった本物の印鑑
後日、父親の本物の印鑑が見つかった。それは、仏壇の引き出しの奥、古い野球のスコアブックと一緒にしまわれていた。
なぜそこに?という問いに、サトウさんが一言。「きっと、お父さんもシンドウさんと同じ元野球部だったんじゃないですか?」。それを聞いて、なぜか少しだけ救われた気がした。
判を押したのは誰か
印影がすべてを物語る――そう思っていた僕は、実はずっと見落としていた。押した“手”ではなく、押す“理由”がこの事件の本質だったのだ。
判子一つで変わる人生。軽く見られがちなそれが、どれほど重いかを痛感した事件だった。
嘘を押しつぶした一打席の真実
「最後の最後で決めましたね、ホームラン」とサトウさんが小さく言った。「三振だと思ったけどな」と僕が笑いながら答える。
事務所の外には秋風。僕はそっとドアを閉めて、明日の相談者を迎える準備を始めた。