朝一番の電話と不機嫌なサトウさん
事務所の電話が鳴ったのは、僕がようやく椅子に座った瞬間だった。まだコーヒーに口もつけていない。受話器を取る前にサトウさんが、ため息とともに一言。
「今朝はまだ3件目ですよ」
まるでカツオが宿題を忘れて波平に叱られるような気分で、僕はそっと受話器を取った。
知らない番号からの無言コール
電話の主は、しばらく沈黙を保った後、震える声で「遺言書が、ないんです」と言った。それだけで、こっちの胃もキリキリしはじめる。
依頼人の名前は吉川。明らかに動揺していた。説明を求めると、父親が亡くなり、家族は遺言があると思っていたが見当たらないという。
「遺言が消えるなんてこと、あるんでしょうか」
依頼人は涙を浮かべた女性だった
午後、事務所に現れた吉川さんは、黒いワンピース姿で目元を赤くしていた。ふと見せた手元の鞄には、封筒がひとつ。
「父の書斎から見つけたんですけど……中は空っぽで」
封筒の裏には「遺言書在中」と達筆な文字。それだけに、中身がないという事実がやけに重い。
亡くなった父と消えた遺言書
話を聞くうちに、父親が遺言を書く準備をしていたことは確かだった。知人の行政書士に相談していたとも。
ただし、その書士はすでに廃業していた。生前の記録はどこにも残っていないという。
「まるで、存在しなかったことにされているみたいで……」
戸籍謄本と登記簿とその先にある違和感
調査を始めるにあたり、戸籍と不動産の登記簿を確認する。形式的な確認のはずが、奇妙な点に気づく。
相続人は一人っ子の吉川さんのみ……のはずが、なぜか古い戸籍にだけ、見慣れない名前が記載されていた。
「これは……異母兄弟か?」と、僕はつぶやいた。
同姓同名の影
登記簿の閲覧中、もうひとつ気になる所有者履歴を見つけた。依頼人の父と同姓同名の人物が、かつて別の土地を所有していたのだ。
偶然にしては不自然だ。書類上の筆跡も少し違う。筆圧、癖……。
まるで別人が父を装っていたかのようだった。
印鑑証明が語る過去の取引
法務局で印鑑証明を取り寄せた瞬間、背筋に電気が走った。数年前に作られた委任状には、間違いなく父の署名と印がある。
しかしその印影、どう見ても最近の登録印ではなかった。
つまり、誰かが過去の印鑑証明を悪用していた。
一枚の証明書の存在感
「この証明書、何かに使われましたか?」と尋ねると、吉川さんはハッとした表情を見せた。
「そういえば、父が去年、なぜか印鑑登録を更新していて……」
そのときの旧印影が、今回の不動産取引に使われていた可能性が高まった。
やれやれ、、、とため息の先に
調べれば調べるほど、怪しい影が見えてくる。不動産ブローカーらしき男の名前が取引に関わっていた。
「やれやれ、、、久しぶりに泥の深い案件だな」
思わず机に頭を預けたその瞬間、サトウさんが静かにファイルを差し出してきた。
古い金庫とカラの封筒
「吉川さんの家に、鍵の壊れた金庫があるって言ってましたよね?」
そこには、下書きのような遺言文書があった。署名も押印もないが、遺志は明確に残されていた。
しかも、その隅に、破られた印鑑登録証が貼られていた。
家族の記憶と証明できない気持ち
法律的には無効だが、倫理的には重みがある。吉川さんは涙を流しながら、父の文字を何度もなぞった。
「この気持ちが証明できればいいのに」
彼女の声は、深夜ラジオのように心に染みた。
遺言の証人が語ったこと
かつてのご近所さんが、父が遺言を書いていた場面を見ていたことが判明した。
ただ、その証人も記憶が曖昧で、誰に託したかまでは知らないという。
失われた文書の輪郭だけが、少しずつ浮かび上がってきた。
全てのピースが揃った瞬間
件の不動産ブローカーはすでに別件で逮捕されており、父の名前を使って無断譲渡を繰り返していたことが分かった。
印鑑証明は、古物市場から流出したもので、見事に悪用されていた。
全ては、父の死の直前に交わされた“嘘の売買”によって起きた事件だった。
誰が、なぜ、遺言を消したのか
結局、遺言を破棄したのは、父の信頼していた行政書士の弟子だった。
彼はブローカーと共謀し、封筒だけを残して中身を抜き取っていた。
動機は金。だけど、封筒に残った父の字が、すべてを告発していた。
解決のあとに残るもの
事件は解決したが、遺言の正式な再現は叶わなかった。代わりに、家族の想いが集まり、調停での和解が成立した。
法的にはグレーでも、心の整理はついた。そんな結末だった。
そして僕は、黙って見守るサトウさんの視線から逃げるように、コーヒーを啜った。
サトウさんの一言が刺さる
「結局、証明できるのは紙じゃなくて、信頼なんですよね」
何気なく言ったその一言が、やたらと深く胸に刺さった。
……僕も誰かに信じられてみたいもんだな、と小さくつぶやいた。