司法書士事務所に届いた違和感
朝一番の電話は、妙に丁寧な女性の声だった。「離婚に伴う所有権移転登記をお願いしたいんです」。淡々とした口調。だが、声の奥に何かを押し殺すような響きがあった。
その声は俺の記憶の中の誰かに似ていた。けれど、それを確かめるのは後回しだ。なにせ、月初は登記依頼が雪崩のようにやってくる。息をつく暇もない。
俺は受話器を置くと、机の上のコーヒーを一口飲んだ。苦い。今日も長い一日になりそうだ。
午前九時の不機嫌な電話
その直後、別の電話が鳴った。今度は男性。声が荒く、書類の準備を急げと怒鳴る。口調からして関係者のようだったが、名前を名乗らない。
俺は礼儀を重んじる司法書士である前に、事務所の秩序を守る主だ。話の途中で一方的に電話を切るのはいただけない。
やれやれ、、、月初の電話はたいていロクなことがない。
妙に丁寧すぎた依頼内容
送られてきた委任状と必要書類は、どれも完璧だった。あまりに完璧すぎて逆に不自然だ。こんなに整った依頼は、普通なら弁護士経由だ。
なのに、依頼人は自分で書類を揃えてきたという。直筆の署名と実印も完璧。戸籍にも離婚の記録があった。
完璧なものほど疑わしい。それが長年の経験で得た感覚だ。
依頼人と旧姓の謎
登記申請書を作成しながら、ふと気づいた。登記義務者の氏名が「旧姓」に戻っているにも関わらず、戸籍附票にはまだ変更が反映されていない。
普通なら「改姓」が終わってから登記の申請をするはずだ。手続きを急ぐ理由があったのか。
サトウさんが書類を受け取りに行ったが、戻ってきて一言、「あれ、見覚えある顔でしたよ」。
サトウさんの冷たい直感
「あの人、シンドウさんの元カノじゃないですか?」とサトウさん。俺は思わずコーヒーを吹き出した。
「そんなわけないだろ」と言いつつ、心のどこかで納得している自分がいた。あの声。あの筆跡。まさか。
「だとしたら、シンドウさん、またフラれましたね」サトウさんの塩対応は今日もブレない。
戸籍附票に記された空白
戸籍附票の住所欄には、奇妙な空白があった。通常なら記録されるはずの住民票の移動が、どこにもない。
住民票を抜いたあと、どこか別の市町村に移した形跡もない。まるで、日本中どこにも存在していないような状態だ。
まさか「失踪」扱いになる寸前では?思考が、火曜サスペンスのナレーションのようになっていく。
登記完了の通知と破局の告白
登記が無事に完了し、識別情報を郵送しようとしたそのとき、依頼人から封書が届いた。中には一通の手紙が。
「あなたとは、あのとき登記簿のどこかで繋がっていると信じていました。でも、もう終わりにします。」
やれやれ、、、俺は何の登記を手伝っていたんだ。
登記識別情報と涙
手紙の文末には、識別情報のコピーとともに、小さな写真が同封されていた。見覚えのある笑顔だった。
あの夏、甲子園で空振り三振をして、ベンチで泣いていた俺を笑わせてくれた唯一の人。その人が、依頼人だった。
俺の手で、彼女との縁を法的に切ったのだ。プロとして正しく。でも、人間としては、取り返しのつかないことを。
失踪届と元配偶者の影
市役所から届いた照会書。内容は「転出先不明により追跡不能、失踪の恐れあり」と記されていた。
別れた相手の情報を、こうしてまた法的に扱うことになるとは。恋も登記も、一度完了してしまえば後戻りはできない。
誰が悪いわけでもない。ただ、あの日あの場所で、お互いにサインをしただけなのに。
元妻の名前が消えた日
新しい登記事項証明書には、彼女の名前がきれいに削除されていた。まるで最初から存在しなかったように。
登記簿は正直だ。だが、人の気持ちまでは記録してくれない。
司法書士の仕事は正確さが命。でも時々、心のどこかで「これは正しいのか?」と問いかけたくなる。
不一致な委任状の筆跡
登記が完了したあと、ふと再確認した委任状。筆跡が少しだけ異なっていた。最初の「マリコ」の「マ」の字の角度。
あれは彼女のクセじゃない。誰かが代筆した?それとも彼女が意図的に筆跡を変えたのか。
俺の中に、名探偵コナンの阿笠博士が囁いた。「筆跡にもトリックがあるのじゃよ」。
手書きに潜むもうひとつの意図
まるで俺に気づいて欲しいかのように、微妙に崩された筆跡。彼女は俺に何か伝えたかったのか。
でも、もう彼女はこの町にいない。どこへ行ったのかも分からない。
残ったのは、登記識別情報と、あの一枚の笑顔だけ。
完了の印と未練の結末
申請書には「登記完了」のハンコが押された。作業は完璧だ。俺の仕事は終わった。
でも、気持ちの整理は終わっていなかった。法務局の窓口を出たあと、なぜか足が重かった。
紙の上では人と人の関係を簡単に切ることができる。でも、気持ちはそう簡単に切れないらしい。
登記簿は正しくても心は訂正不能
訂正のきかない人生。それを証明するような登記だった。正確無比で、どこにも間違いがない。
だからこそ、逆に悲しかった。ミスすらない別れには、後悔すら挟む余地がない。
もう一度、彼女に「ありがとう」と言えたなら。いや、それももう届かない。
次の事件がドアを叩く
サトウさんがドアをノックした。「次のお客さん、来てますよ」
俺は机の上に書類を重ねて立ち上がった。登記も人生も、止まってはくれない。
やれやれ、、、昼飯、まだだったのにな。
俺の昼飯はまだかとサトウさん
「またカップラーメンですか?」とサトウさん。「やっぱり、元カノに逃げられる男は違うな」
俺は苦笑いを浮かべながら言った。「登記は完了しても、人生の空白は埋まらんな」
そう呟きながら、俺は次の登記へと向かう。恋の登記は、永遠に未完のままだ。