登記簿に眠る殺意
古びた家屋と古びた依頼
雨上がりの午後、事務所に一人の中年男が訪れた。肩の下がったスーツに、擦り切れたカバン。見るからに疲弊した表情で「土地の名義変更をお願いしたい」と言ってきた。依頼内容は、郊外にある空き家の名義を、亡くなった父から自身へ移すというものだった。
「ふつうの相続登記」と思っていたが、その家屋は築60年以上、登記簿も旧法時代から続く複雑な経緯を持っていた。しかも依頼者の名字と、被相続人の名字が違う。これは、ひとクセあるやつだ。
書類の山に潜む違和感
戸籍を集めるうち、父とされる人物には正式な婚姻歴がなく、依頼者は認知された非嫡出子であることが分かった。遺産相続における割合は、他の兄弟姉妹と比べて同等だが、揉める可能性は大きい。
「念のため他の相続人の情報も集めておきましょうか」と私が言うと、依頼者は目を伏せたまま、「全員、死んでます」と呟いた。その言い方が、妙に重かった。
サトウさんの冷たい推理
「全員死亡って、ちょっと都合良すぎません?」とサトウさんがファイルを閉じながら言った。こちらの問いかけを待っていたかのようなタイミングだった。
「まぁ、そういうケースもありますよ」と苦笑する私に対し、彼女は淡々と資料を指さす。「この人、2年前までは生きてたみたいですけど。住民票、転出してません」その一言で空気が変わった。
謄本から消えた一行の謎
該当物件の登記簿を確認すると、10年前に仮登記されていた抵当権の抹消がなぜか漏れていた。しかも、その債権者は既に亡くなっており、相続登記もなされていない。登記簿の履歴が、不自然な空白を抱えていた。
まるでサザエさんのエンディングで波平がこけたあとの、「あれ?これ前回と違うぞ?」みたいな違和感。だがこちらはほのぼのどころか、殺伐としていた。
元地主の息子と隠された遺志
調査を進めると、依頼者の父は地域の名士で、何件もの土地を所有していたことが判明した。だが亡くなる直前に、ある土地だけを非嫡出子に渡そうとしていた痕跡がある。遺言書は公正証書ではなく、家庭裁判所での検認も受けていない。
その遺志は法的に弱く、他の相続人が健在であれば争いは避けられなかったはず。だが、なぜか争う相手は存在しない。全員、事故か病死で早々に亡くなっていた。偶然にしては、あまりにも重なりすぎている。
地番の争奪戦と血縁の影
その土地には再開発の話が持ち上がっていた。数年後には市が買い上げ、数千万円の価値がつく予定。どうやら依頼者は、それを知った上での行動だった。地番の周辺では地元不動産業者の動きも確認された。
サトウさんが言った。「たぶん彼は“最後の一人”だったんでしょうね。だからこそ依頼に来た」彼女の目は鋭く、しかし少しだけ哀れみを含んでいた。
誤記か偽造か決め手はあの書類
戸籍の一部に不審な訂正印があった。修正された箇所は、認知日。もしこの日付が意図的にずらされていたとすれば、他の相続人よりも前に相続権を主張できる。司法書士の目は、そういうところを見逃さない。
「これ、筆跡鑑定してもらえます?」と私は知人の行政書士に依頼した。数日後、返ってきた結果は「他人による記載の可能性が高い」というものだった。
サザエさん的偶然と野球部的本能
件の依頼者に再度連絡を試みたが、すでに引っ越しており、連絡はつかない。あまりにもタイミングが良すぎる。まるでカツオが宿題をやってない日に限って、先生が欠席したような巡り合わせだった。
しかし私は野球部出身。サインプレーで鍛えた観察眼は、こういう時に働く。「この書類のハンコ、角度が全部一緒なんですよね」と、直感が告げていた。
依頼者の言葉に潜むもう一つの嘘
面談中、依頼者は「父に一度も会ったことがない」と言っていた。しかし戸籍に載っていた住所は、彼の高校時代の通学区域と一致していた。無意識の嘘か、意図的な隠蔽かは分からない。
だが、その一言が決定的だった。「やれやれ、、、めんどくさい案件だったな」と呟いたとき、サトウさんが珍しく「それ、口癖ですか?」と笑った。
地方の法務局が静かに揺れた
私たちはすぐに登記の保留を申請し、法務局に事情を説明した。改ざんの可能性があるとして、再調査が行われることになった。手続きは止まり、依頼者の思惑は一旦阻止された。
事件性があると判断され、警察も関与。だが証拠が曖昧で、立件には至らなかった。ただひとつ、記録には「登記簿に不審な訂正あり」と残された。
サトウさんの塩対応が冴えわたる
「結局、登記されなくて良かったですね」とサトウさんは言った。「あなた、間違って登記しそうでしたもん」塩対応というよりも、氷のような正論パンチだった。
「そ、それは…あくまで仮定の話だろう」としどろもどろになる私を見て、彼女は一瞬だけ口元をゆるめた。たぶん、笑っていたのだろう。たぶん。
結末は静かにそして鮮やかに
その土地は、市により買収される前に法定相続人の不存在として管理が開始された。再び誰かの名義に戻るには、時間がかかる。それでも、誰かが記録を守ったという事実が残る。
司法書士の仕事は、誰かのためではなく、記録のためにある。そんな気がした夕暮れだった。
登記簿に刻まれた真実
登記簿は物言わぬ証人だ。だが、そこに残された文字や修正痕が、時に人間の欲望や罪を浮かび上がらせる。今回の件で、その重みをあらためて感じた。
真実は、紙の中に眠っていたのだ。
誰も知らない地番の物語
人が死んでも、土地は残る。名前が消えても、番地は残る。誰も見ないページの中に、物語が折り畳まれている。そんなことを考えるのは、司法書士ぐらいのものかもしれない。
私は机の上の登記簿を閉じた。次の依頼者のために、頭を切り替えるしかない。
また一つ仕事が終わった夜に
「今日はもう帰ります」と言うサトウさんの後ろ姿を見送りながら、私はそっとコーヒーをすする。外はもう真っ暗で、事務所の蛍光灯だけが現実を照らしていた。
「やれやれ、、、次はもっと簡単な依頼であってほしい」私は独り言をこぼしたが、それは願望というより、ほとんど祈りだった。