署名欄に潜む殺意

署名欄に潜む殺意

朝の印鑑ミスと一通の契約書

「あの、これ……印鑑、ズレてますよ」
サトウさんの冷めた声が、朝の静けさに溶け込んだ。
眠気の残る頭で契約書を眺めると、確かに、押印位置が微妙に右寄りだ。

「ああ、ほんとだ。昨日遅くまで仕事しててさ、寝ぼけてたのかも」
言い訳をしながら、僕は訂正印を手に取る。
その書類は、相続に伴う不動産の名義変更に関する委任状だった。

サトウさんの冷静な指摘

「これ、筆跡が違うように見えます」
サトウさんは、他人の細かな変化に異常に鋭い。
「前回の委任状と並べて見ても、明らかに違います」

司法書士として筆跡の真偽を確定する権限はない。
ただ、書類の整合性に気を配るのは当然だ。
「やれやれ、、、また厄介な案件か」僕はため息を漏らした。

見覚えのある筆跡の違和感

それは、ほんのわずかな違いだった。
漢字のはらいが長すぎる。止めが曲がっている。
それでも、見慣れた筆跡とは明らかに異なる印象を受けた。

「もしかして、偽造……?」
声に出すには軽すぎる言葉だが、頭の中にはその疑念が膨らんでいた。
そして、僕は過去の依頼者リストを開き、ある名前に目を止めた。

偽造された委任状の正体

委任状の依頼主は、数ヶ月前に一度だけ訪れた男性だった。
そのときの印象は薄かったが、サトウさんはその名前を覚えていた。
「その人、先月亡くなったと新聞に出てましたよ」

……生きているはずの人間が死んでいる。
死んでいるはずの人間が署名している。
僕の背中に冷たい汗が流れた。

古い登記簿が語る過去の因縁

事務所の奥の棚から、黄ばんだ登記簿を取り出した。
そこには数十年前から連なる所有権の移転履歴が残っていた。
不自然な点は、ひとつの土地に同じ苗字の人間が繰り返し関与していることだった。

「これ、遺産争い……でしょうか?」
サトウさんの言葉に、僕は頷くしかなかった。
親族間の相続争いは、時に殺意すら生む。サザエさんのように平和じゃいられない。

元名義人が残した最後の記録

死亡した依頼人には、唯一の肉親である弟がいた。
その弟が遺産を独り占めしようとした疑いが強い。
死後の委任状——それは、事実上の遺産強奪だ。

ただの登記申請と思っていた案件が、重大な不正の入口だった。
この署名ミスがなければ、僕は気づかずに済んでいただろう。
けれど、僕は司法書士だ。気づいた以上、黙っているわけにはいかない。

事件の発覚とサトウさんの閃き

「このハンコ、印影がズレてるだけじゃありません。朱肉の濃さが変です」
サトウさんは書類をライトにかざした。
偽造された印影は、熱転写プリンターの加工痕があった。

それは、警察へ通報する決定的な証拠となった。
依頼人の死後に作られた偽造委任状は、立派な文書偽造罪だ。
我々司法書士が犯罪の片棒を担がされるわけにはいかない。

法務局の窓口で拾った小さな証拠

念のため、法務局で当該物件の閉鎖登記簿も取得してみた。
そこに残されていた一筆の備考欄には、奇妙なメモが残っていた。
「先日、同様の委任状の偽造事例が報告されました」

同じ手口——それが、この犯人の癖だとすれば、過去にも複数回、同じことを繰り返している可能性がある。
司法書士が知らずに犯罪に加担させられていたとしたら、これは業界全体への警告だった。
「まったく、サトウさんがいなきゃ気づかないとこだったよ……」

疑惑の相続と兄妹の確執

事情聴取の結果、弟が兄の死後に無断で印鑑と印鑑証明を使用していたことが明らかになった。
幼いころから兄に劣等感を抱いていた彼は、財産だけでも奪い取ろうと決意していたという。
その動機は、驚くほど小さく、しかし深かった。

封印された遺言書の秘密

遺品の中から見つかった手書きの遺言書には、
「全ての財産を弟に譲る」と記されていた。
それが正式な手続きを経ていなかっただけで、兄の本意だったのかもしれない。

だが弟は、その事実を知らなかった。
本当に欲しかったのは、金ではなく、認めてもらうことだったのかもしれない。
「誰も幸せにならないな……」僕は空を見上げて呟いた。

真実の解明と司法書士の役目

登記の訂正申請を終え、すべての報告書を提出した。
事件としての幕引きは、司法の手に委ねられる。
だが、こうした事実を記録として残すのも、司法書士の大切な仕事だ。

サトウさんの冷めた言葉と温かい正義

「これで少しは、慎重に印鑑押すようになりますか?」
皮肉とも取れるサトウさんの言葉に、僕は苦笑した。
「いや、きっとまたズレるね」

それでもいい。
その小さなズレが、誰かの命を救うなら。
僕は今日も、朱肉を均等に塗りながら書類に向かう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓