好きな人が指した遺言書

好きな人が指した遺言書

朝の郵便物に混じっていたもの

朝の決まったルーティン、事務所のポストから郵便物を回収する。税務署からの茶封筒、司法書士会のお知らせ、そして——一通の白い封筒。 差出人の名前には見覚えがあった。不動産会社の社長、二階堂謙吾。数ヶ月前に相続の相談を受けた男だったが、今さら何を送ってきたのか。 封を開けると、中には「公正証書遺言案」と手書きのメモが入っていた。

白い封筒と赤い文字

封筒の端に赤いインクで「至急確認願います」と走り書きされていた。どうも普通の文書ではない。 急いで中身に目を通すと、そこには遺産の配分が詳細に書かれており、明らかに誰かに不利な記述があった。 妙な胸騒ぎがして、ぼくは一度目を閉じた。

妙に丁寧な差出人の名前

差出人欄にある筆跡はいつになく整っていた。彼の字はもっと荒っぽかったはずだ。 この封筒だけ、誰かが代筆した可能性がある。そう思って、裏返すと、封のノリも不自然に厚かった。 やれやれ、、、朝から気の抜けない日になりそうだ。

事務所でのいつもと違うサトウさん

いつもならパタパタとキーボードを叩いているサトウさんが、今朝に限って妙に静かだった。 「何かあったのか?」と尋ねても、「別に」と返されるだけ。お茶を出す手も、ほんのわずかに震えているようだった。 こんな時の彼女の無表情は、逆に何かを隠している証だ。

口数が少ないその理由

サザエさんで言えば、波平の髪が増えたくらいの違和感。それくらい、サトウさんの変化は珍しい。 「まさか遺言書の件、何か知ってるのか?」と冗談めかして聞いても、彼女は黙ったままだった。 ぼくはコーヒーを一口飲んで、静かにファイルを開いた。

机の上のメモと花束

さらに奇妙なことに、サトウさんの机の上には、小さな花束とメモが置かれていた。 『ありがとう また会える日まで』と書かれたそれは、どう考えても業務に関係ない。 しかもその文字は、遺言書に添えられていたものとそっくりだった。

遺言書の作成を依頼した男

二階堂謙吾は、数ヶ月前にぼくのところにやってきて、遺言書の文案について相談していた。 その時は「妻にも子どもにも財産は渡したくない」と息巻いていたが、やたらと感情的だったのを覚えている。 今回届いた案では、全財産が特定の“個人”に集中している。その個人の名前は——サトウ・ミユキ。

不動産会社の社長の死

ニュースを確認すると、二階堂謙吾が昨晩、自宅で転落死したという情報が出ていた。 警察は事故として処理しようとしているようだが、現場には酒瓶と未処理の書類が散らばっていたらしい。 そして、彼のデスクに最後にあった封筒。それが、ぼくに届いた遺言書だった。

手書きの遺言書とその矛盾

公正証書案と言いながら、内容はすべて手書き。そして筆跡が複数混じっている。 日付の部分だけ妙に新しく、しかも印鑑の押し方が雑だった。印鑑のかすれは、普段の彼の几帳面さからは考えにくい。 この文書は——おそらく死後に偽造されたものだ。

好きな人という言葉の行方

なぜサトウさんの名前が遺言書に書かれているのか。なぜ花束とメモが机にあるのか。 まさかと思い、以前の会話を思い出した。「好きな人、いますよ」と彼女がポツリと漏らした夜のことを。 それがもし、依頼人だったとしたら?

会話に出てきたあの名前

その時の彼女の目は、どこか遠くを見ていた。恋に落ちた女性の顔だった。 まさか、あの社長が……? いや、歳も立場も違いすぎる。 でも、もしかすると彼女にとっては、それが関係なかったのかもしれない。

過去に交わされたメールの痕跡

彼のPCデータのバックアップを確認したところ、サトウさん宛てのメールが十数通あった。 『君のことを考えている』『いつか一緒に仕事を辞めてどこかへ行きたい』—— それは、遺言書の裏付けとも言える内容だった。

登記申請に紛れた違和感

もう一つ気になる点があった。提出直前の登記申請書。住所地番が一つずれていた。 このズレは、わざとでなければ起きない。おそらく誰かが、登記を無効にするために細工したのだ。 その意図は、「サトウさんを守ること」以外に考えられなかった。

問い詰められるサトウさん

「本当のことを聞かせてくれ」ぼくは静かに言った。 彼女はしばらく黙っていたが、やがて視線を外し、こう言った。「私は何もしてません。 でも——あの人は、最後に私に遺してくれたんです。過去も未来も。」

涙ではなく論理で返す女

彼女は泣かなかった。淡々と、まるで判例を読み上げるように話した。 好きだった人が遺言書を残し、世間に反してでも彼女に思いを遺した。 その想いだけは、ぼくにも否定できなかった。

真犯人が見落とした一点

この遺言書が無効になるよう仕組んだのは——おそらく彼の元妻だった。 かすれた印鑑、ずれた地番、筆跡の違和感。全ては彼女の工作。 だが、日付の部分だけは彼自身の筆跡だった。そこが決定的な証拠になった。

印影とタイムスタンプの罠

スキャナに残っていた原稿データには、電子的なタイムスタンプが押されていた。 それは死亡当日の午後三時。つまり、彼自身がその文書を作っていた証だ。 偽造ではない、本人の意思だった——それが、最後に残った事実だった。

好きな人の名前が消えた理由

事件後、彼女の机から花束は消えていた。メモもない。全て「なかったこと」になっていた。 彼女にとっては、真実だけが残ればよかったのだろう。誰にも知られないまま、胸の内に収めて。 やれやれ、、、恋ってやつは、司法書士にはちと荷が重い。

事件の結末と新しい朝

数日後、何もなかったように彼女は出勤してきた。「登記、修正出しておきました」とだけ言って。 ぼくはコーヒーを二つ淹れて、一つをそっと差し出した。 「ありがとう」と返した彼女の笑顔は、どこかで見たことがあるような、けれど初めて見るような、不思議なものだった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓