朝の着信と不機嫌なコーヒー
朝イチの電話ほど、胃に悪いものはない。ましてやそれが「相続の相談なんですけど…」なんて始まった日には、ブラックコーヒーさえ胃液のように感じる。
「シンドウ司法書士事務所です」そう名乗った瞬間、もう後戻りはできない。俺の今日も、また書類と争う一日になりそうだった。
「ご相談なんですが、亡くなった父の相続について…」受話器越しに響く女性の声は妙に怯えていた。
相続登記の相談という名の地雷
話を聞く限り、被相続人は父親、相続人は娘ともう一人。兄がいるらしいが、所在不明だという。
そんなときこそ必要なのが相続関係説明図。だが、依頼人はそれを自作して持ってくると言った。
嫌な予感しかしなかった。
一枚の図面が持ち込まれた日
三日後、例の依頼人がやってきた。中年女性で、見るからに緊張していた。
彼女の持ってきた相続関係説明図は、確かに書式上は間違っていなかった。が、何かが引っかかった。
人間関係が、やけに整理されすぎている。きれいすぎる図面には、必ず裏がある。
相続関係説明図に違和感がある
線が一本、足りない気がした。いや、正確には「消されている」ような。
「このご兄弟、連絡はつかないとのことですが…」と尋ねると、彼女は急に視線を逸らした。
「死んだんです。事故で」それ以上は語りたくなさそうだった。
塩対応とスルドイ指摘
「線、一本おかしいですね」
サトウさんが言った。俺より先に気づいていたらしい。さすがだ、やっぱり切れ者だ。
それなのに、こちらを一瞥するだけで、解説はしてくれない。いつもの塩対応である。
サトウさんは図面を一瞥した
「被相続人の父の欄、消えています」
確かに、本来なら記載されるべき名前が一つ、ぽっかりと空白になっていた。
しかも消しゴムの痕跡が残っている。手書きの図面、素人の隠し事は雑だ。
名字の揺れに潜む謎
さらに妙だったのは、依頼人とされる女性の旧姓と、消された名前が一致していたことだった。
つまり、彼女は「兄ではなく、父親の名前を消した」のではないか?
だとしたら、そこにどんな理由があるのか。
この名字誰が変えたのか問題
戸籍を辿ると、依頼人の戸籍に変な空白があった。
養子縁組か、婚外子か。だがそれ以上に気になったのは、除籍簿に記載された古い名前だった。
それは、現在の被相続人とされる人物とは別人の可能性を示していた。
被相続人の足跡をたどる
昭和から平成初期の戸籍をたどり、ようやく一つの事実に行き着いた。
被相続人には、かつてもう一人の子がいた。だが、その名前はどこにも書かれていなかった。
「相続関係説明図」にも、依頼人の説明にも。
戸籍をめくると嘘が見える
その子は、十年前に死亡していた。しかも、養子縁組の事実もあった。
つまり、本来ならその人物が相続人となりうる立場にあった。
「線を消した理由」、ようやく見えてきた気がした。
隠された出生の記録
本籍地を調べ直すと、思いもよらない土地に戸籍が残っていた。
そこには、依頼人の母親が未婚で産んだ子供の記録があり、後に父親が認知していた。
そしてその人物は、図面には存在しない。
長女の欄に記された古い影
図面上は長女とされていた依頼人だが、実際には次女だった。
長女は事故死していたが、その遺族がいる可能性があった。
つまり、相続関係を「正確に描けば」自分の取り分が減るか、なくなるということだ。
依頼人が語りたがらない過去
改めて事情を尋ねると、依頼人はしばらく沈黙したままだった。
「あの人は…あの子は…うちの人間じゃないんです…」
その声は、憎しみとも哀しみともつかない震えがあった。
沈黙の裏にある感情の亀裂
「正確な書類にするなら、こちらとしては補足説明が必要になります」
俺は事務的に言ったが、彼女は何も答えなかった。
ただ、小さくうなずき、図面を引き取って帰っていった。
やれやれこの程度で済めばいいけど
「全部話してくれりゃいいのに…」俺は独り言のように呟いた。
「やれやれ、、、結局こっちで全部調べる羽目になるんだよな」
サザエさんの波平じゃないが、「バカモン!」と怒鳴りたい気分だった。
古い通帳と一通の手紙
後日、依頼人から封書が届いた。そこには通帳の写しと、短い手紙が入っていた。
「あの人の子供に、これを渡してあげてください」
何があったか、もう聞くまい。だが、少なくとも嘘の図面にはしなかった。それで十分だ。
真実は図面の外にいた
事務所の棚に、修正された相続関係説明図をファイリングする。
そこには、かつて消された名前が、正式に記載されていた。
線一本が繋がったことで、何かが救われた気がした。
最後に名前を消された人物
相続とは、金や土地の問題に見えて、実は「心の居場所探し」なのかもしれない。
消された人、消した人、それぞれに理由がある。だが、書類は嘘を許さない。
そこがこの仕事のつらいところでもあり、面白いところでもある。
法務局の受付で起きた異変
その日、提出書類を受け取った法務局の担当者が、ふと手を止めた。
「相続人の記載が一人増えていますね」
「ええ、訂正しました」俺は淡々と答えた。
誰が相続人かを決めるのは誰か
法律が決めるのか、戸籍が決めるのか、それとも書類を書く人間なのか。
答えは決まっている。だが、現場にいると時々それが揺らぐ。
それでも、線は正しく引かねばならない。司法書士だから。
静かな別れと重たい印鑑
数週間後、登記が完了した。
書類を受け取った依頼人は、静かに頭を下げて事務所を後にした。
残された印鑑の重みが、妙に手に残った。
結末はいつも机の上にある
事件というほどのものではない。でも、確かに「謎」はあった。
そしてそれは、今も俺の机の上で、静かに閉じたファイルの中で眠っている。
さて、次の相談はなんだ。…やれやれ、また地雷かもしれないな。