信託人は誰だったのか
古びた公証役場での出会い
三月の終わり、公証役場の薄暗いロビーで、一人の女性が声をかけてきた。「この書類、見てもらえますか?」 差し出されたのは、家族信託契約書と称する文書。だが、形式がどこか不自然だった。 筆跡は乱れ、印影も微妙に傾いている。まるで誰かが急いで作ったような不器用さがあった。
信託契約書の矛盾
持ち帰って詳細を確認すると、信託人の氏名と印鑑登録証明書の名前が一致していなかった。 「これ、誰が作ったんだ……」と呟くと、サトウさんが背後から言った。「たぶん素人ですね、やっつけ仕事です」 見事な塩対応である。でも、そんな彼女の指摘が案外的確なのがまた腹立たしい。
依頼人の不可解な沈黙
再度連絡した女性は、「父が急に倒れて…もう話せないんです」と語った。 だが、彼女の口調には妙な間があった。沈黙の裏に、何かを隠している気配が漂う。 サザエさんのノリで言うなら、「それって波平さんのカツオに対する沈黙」みたいなものだ。
受益者の失踪と謎の通帳
信託財産とされたはずの通帳が行方不明。しかも受益者本人も連絡が取れなくなっていた。 「これ、信託されたお金、すでに誰かが使ってる可能性ありますね」とサトウさん。 さすがにそれはないだろうと笑ったが、内心はゾッとしていた。よくある詐欺の初動と酷似していたのだ。
サトウさんの鋭すぎる指摘
「信託財産目録に記載された不動産、実はまだ父親の名義のままなんです」 資料を広げた彼女は、冷ややかな目で淡々と話した。「つまり、契約は成立してない可能性が高い」 事務員とは思えぬ分析力。俺の存在意義が危うい。
被相続人の二つの顔
調査を進めると、父親にはもう一人隠し子がいる可能性が浮上。 彼女が「受益者」とされたのは、遺産を手にするための方便だったのかもしれない。 それにしても、この家族構成、まるでサスペンス劇場のテンプレートだ。
法務局で見つけた過去の影
ある登記情報の中に、かつてその父親が信託人となっていた別の契約を発見。 そこには、別の受益者の名とともに、今回と同じ筆跡があった。 「二重信託か?」と我ながらゾクリとした。
登記原因が語るもう一つの真実
登記原因欄には、「令和三年信託契約による所有権移転」と記されていた。 だが、その契約書自体が不自然なら、この登記も無効の可能性がある。 「やれやれ、、、またやっかいな仕事を引き受けちまったな」と独り言を漏らす。
名義変更を阻む封印
調査の結果、財産の一部に仮登記が設定されていた。しかも、差押えと同時期のものだ。 つまり、誰かがこの信託財産を巡ってすでに動いていたということだ。 司法書士としての本能が、危険信号を鳴らし始めていた。
司法書士会からの警告
「信託契約書の内容について、会としても注意喚起が出ています」 会報に載っていた同様のケースが、今回とよく似ていた。 詐欺まがいの契約書で資産を移し、行方をくらます手口。まさか、こんな地方都市で…。
隠された裏ルートの構図
信託制度を悪用した「相続の裏ルート」が存在するらしいと耳にしたのは、昨年の研修会だった。 一部の悪徳士業が関与しているとの噂もある。 今回の件も、そういったルートの延長線にあるのだろうか。
遺言書と信託契約の分岐点
依頼人のバッグから出てきたのは、古い封筒に入った遺言書だった。 「自筆証書遺言です」と言いながら震える手が印象的だった。 内容を読むと、まったく別の人物が財産を相続することになっていた。
突きつけられた遺留分の罠
家族信託でうまく財産を動かしたつもりが、遺留分侵害で訴訟を起こされる可能性があった。 依頼人はそれを恐れ、無理やり信託という形で逃げようとしていたのだ。 だが、それがすべて裏目に出ていた。
やれやれ案件と思いきや
登記を却下されたことで、依頼人はあきらめ顔だった。 「これってもうどうしようもないですか?」と尋ねられた時、俺は首をかしげた。 「信託じゃなくて、遺言執行という手もありますよ」と、ようやく前向きな提案をしてみた。
サトウさんの反撃
「でも、遺言の日付、信託契約より後ですよ。無効になりません?」 ああ、そうだった。やれやれ、、、油断も隙もないな、この事務員は。 それでも最後に、「私、登録免許税の計算しておきます」と言われた時は少し救われた気がした。
信託人の正体と司法書士の決断
すべての書類と証拠が揃った時、はっきりした。 信託契約の「信託人」は、父ではなく娘自身が勝手に名前を使って作った偽造だった。 俺は、淡々と法務局に虚偽登記の報告を出し、静かに案件を終えた。