湯気に隠れた告白

湯気に隠れた告白

冬の夜のおでん鍋

事務所帰りの足を止めたのは、通りにある小料理屋から立ち上る湯気だった。冷えた体に染みるその匂いに誘われて、俺はのれんをくぐった。中は思ったよりも賑やかで、年末のせいか、見知った顔もちらほら見える。

「シンドウさん、こっちこっち」――手を振っていたのは依頼人の女性だった。まさか、おでん屋で相続の相談とは。さすがに気が進まないが、断るタイミングも逸した。

小料理屋で始まった違和感

席に着いた瞬間から、なにか妙な空気が流れていた。依頼人の女性、その隣にいた若い男、奥に座る年配の男性と、その隣の落ち着いた女性。四人は一応「親戚」ということらしいが、互いの目線が交わらない。

大根の湯気が立ち上る鍋を囲みながら、会話はぎこちなく、誰も真っ直ぐ話そうとしない。俺はそっとサトウさんの方を見たが、彼女はすでに観察モードに入っていた。

鍋を囲む四人の男女

四人とも、おでんの注文にそれぞれ個性があった。若い男はガツガツと練り物ばかりを選び、年配の男性は出汁だけを啜っている。依頼人の女性は卵を二度見してから避け、落ち着いた女性はひとつも箸を動かさない。

まるで誰かの視線を気にしているようで、鍋の中の具材にさえ触れられない空気。食欲よりも、警戒心の方が強く漂っていた。

奇妙な注文と沈黙

「卵、苦手なんですか?」と俺が訊ねると、依頼人の女性は一瞬固まったあと、笑ってごまかした。「昔、ちょっと思い出があって」と。

その表情に、何か過去の影が差しているようだった。話は登記の相談に入ったが、俺の中ではすでにおでん鍋の中に別の事件の匂いがしていた。

ちくわぶを選ぶ者は誰か

関東出身者しか頼まないと噂されるちくわぶを、若い男が迷わず取ったのを見て、俺は小さく首を傾げた。話を聞けば、彼は関西育ちらしい。だったら、ちくわぶなんて選ばないはずだ。

「東京の大学にいた頃、クセになって」と言うが、あまりにも答えが早すぎた。まるで、誰かから聞いたセリフをそのまま返しているような。

誰かが卵を避けた理由

一方で卵を避けた女性は、何度も鍋を見つめながらも、とうとう何も手をつけなかった。サトウさんが小声で言った。「あの人、卵を食べると泣いちゃうんじゃないですか?」

その瞬間、何かが繋がった気がした。卵は、過去の恋人の記憶。そして、その恋人の現在の恋人は――。

司法書士の招かれざる出張相談

相談の内容は、亡くなった祖母の名義が残る不動産の名義変更。相続人が集まっている体だが、どうも全員の同意が得られていないようだった。俺の役目は単純な書類確認のはずだったが、妙にみんなが緊張している。

「登記簿のことより、こっちの方が問題じゃないですかね」と俺がつぶやくと、サトウさんがそっと頷いた。彼女はすでに、何かを掴んでいるようだった。

登記相談が呼んだ偶然の出会い

依頼人と若い男は恋人同士だった。しかし、その関係は家族に隠されており、今日の集まりで発表する予定だったという。だが、家族の中に元恋人がいた――落ち着いた女性。さらに、年配の男性は依頼人の元婚約者の父親だった。

おでんを囲んで、恋と過去と現在がぐつぐつ煮え続けていた。

サトウさんの鋭い観察眼

俺が気づかぬふりをして相談書類を眺めている間、サトウさんはテーブルの下の足の動きを見ていたらしい。「あの女性、膝を三回揺らしたあと、両手を強く握ってました。恋人にしか見せない動作です」

その言葉で、すべてが決まった。相続の相談は建前で、本当の目的は「元恋人の結婚宣言を見届ける」ことだったのだ。

箸の動きから見抜く心の機微

誰が誰を今も想っているのか――その答えは、湯気に包まれた鍋の中にあった。練り物を手にした指の震え。卵に伸びかけて止まった箸。大根に箸を伸ばした瞬間に見せた表情。

やれやれ、、、探偵気取りは性に合わないが、今回はどうにも逃げ切れなかったらしい。

恋と嘘の境界線

「本当はまだ、好きなんでしょ?」と俺が言うと、落ち着いた女性は静かに笑った。「登記には書けないことですね」――その言葉に、全員が一瞬黙った。

書類に名前を書くのは簡単だ。でも、本音を伝えるのは難しい。おでんの具ひとつで、心が透けて見える夜もある。

出汁に浮かぶ偽りの証言

依頼人の女性は、実はその恋を終わらせる覚悟で今日来たのだと言った。だが、誰もが嘘をついていた――「もう未練はない」と。

それを隠していたのは、出汁の奥に沈んだ心だった。

「好き」と言えない代わりの行動

落ち着いた女性は、最後に卵を取って箸を止めた。そして、そっと皿に戻した。その動きは、誰にも気づかれない別れの儀式だった。

好きな人の好きだった具を、最後に一度だけ触れて、終わりにする――そういう恋も、きっとある。

やれやれと湯気の中の真実

事件は起きなかった。でも、確かに心が揺れた夜だった。俺とサトウさんは、すべてを見届けたあとは何も言わず、小料理屋を後にした。

「シンドウさん、大根の食べ方、変ですよ」とサトウさんが笑った。やれやれ、、、せっかく真面目に推理したのに、最後は大根か。

最後の一つを誰が取ったのか

鍋の中に最後に残ったのは、白滝だった。誰も取らず、誰も見つめなかったその具だけが、静かに揺れていた。まるで、誰の恋心にもなれなかったもののように。

おでんの具は、きっと人の心を映す鏡なのだ。好きな具は、好きな人の面影。

そして真実は具の中に

翌朝、俺は事務所の給湯室でレトルトのおでんを温めながら、ぼんやりと昨夜を思い返していた。誰かを想う気持ちは、いつも簡単には届かない。

でも、たまには湯気に隠れた告白だって、悪くない。味の染みた卵を頬張りながら、俺はそう思った。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓