朝一番の電話
「相続について相談がある」とだけ言った声
午前8時15分。まだ珈琲の香りが湯気のように事務所に漂っていた頃、受話器の向こうから男性の低い声が聞こえた。「相続について、急ぎで相談したい」とだけ告げるその声には、どこか焦りと、隠しきれない苛立ちがあった。第一声がそれだけというのは、得てしてややこしい案件の合図である。
「お名前とご関係を教えていただけますか?」と聞くと、沈黙のあとに「長男です」とだけ返ってきた。なぜか、それだけで妙に胸騒ぎがした。
亡き父と遺産分割
寄与分を主張する長男の登場
相談に現れたのは、スーツの襟にフケを乗せたままの中年男性だった。開口一番、彼はこう言った。「親父の面倒を見たのは俺だ。弟も妹も何もしなかった。だから俺が多くもらって当然だ」。
こちらの名刺に目もくれず、畳みかけるような物言い。法律上、寄与分の主張には根拠が必要だと説明すると、「そんなの兄貴分の常識でしょ」と一蹴された。
サトウさんの冷たい一言
「それ、証明できますか?」の破壊力
「寄与分って、感情じゃなくて事実で評価されるんですよ」——サトウさんはいつものように涼しい顔で切り出した。長男の口が一瞬止まる。その沈黙の隙を突くように、「例えば介護記録や通帳の支払い履歴、残ってますか?」と畳みかける。
彼女の声は静かだが、法務局の受付印より冷たい。私はというと、事務椅子に深く座りながら、昔のサザエさんの再放送のように「こりゃ長くなりそうだな」と内心ぼやいていた。
法務局に眠るもう一つの真実
相続登記の記録に見えた違和感
亡父の名義で残る土地の登記事項証明書を確認すると、十年前に一部の土地が弟に贈与されていた痕跡があった。だが、贈与契約書はない。これは相続財産からの控除対象になるかもしれない。
それを説明すると長男は憮然とした顔で、「そんなの初耳だ」と言った。こちらとしては、初耳の方がややこしいのだが。
公正証書遺言の謎
削除された文言と開示された秘密
さらに戸籍や公正証書遺言を精査すると、そこには「長男にはすでに相応の援助を行っているため、本件財産は他の子に配分する」という一文があった。だが、その文は二重線で消されていた。
サトウさんが眉ひとつ動かさず呟いた。「こういう線を引くときは、だいたい揉めるって相場が決まってるんですよ」——確かに、何かの意図が感じられた。
昔の家族写真
寄与分を語るのは物言わぬ証拠
長男が持参した古びたアルバムの中に、車椅子を押す母と並ぶ父の姿があった。写真の裏には「令和元年、次女の送迎ありがとう」と手書きの文字。え、次女? いたっけ?
「……ああ、妹です。結婚して名字が変わったから記載してませんでした」と長男がぼそり。だが、この写真は確かな記録だった。
もう一人の相続人
存在を消されていた妹の告白
次女に連絡をとると、「お父さんとは最後まで一緒に暮らしていました」と語った。診察券や送迎の記録も整然と保管されていた。長男は顔を赤くし、「いや、それは…」と口ごもる。
私はその様子を見て、昔読んだ名探偵コナンのエピソードを思い出した。最も怪しいのは、最も正論を叫ぶ者だったりするのだ。
サトウさんの分析と推理
「一番動いていた人は、名も残してない」
「結局、長男さんが“やったつもり”だっただけですね」サトウさんの結論は簡潔だった。感情が先走ると、事実を見誤る。貢献は、黙々と支え続けた者の中にあった。
私はというと、ひとまずこの相続協議が落ち着くことを願いながら、机の上のメロンパンに手を伸ばした。「やれやれ、、、今日も胃が重くなる」
解決の鍵は登記原因
父の生前の贈与が意味するもの
寄与分の判断材料として、父から弟への贈与の記録が活用された。登記原因が「贈与」となっていたことが、分割割合の決定に重要な意味を持った。
実はこの判断を導いたのは、かつてサトウさんが整理しておいた古い登記事項要約書だった。あれがなければ、論点はもっと拗れていただろう。
やれやれ事件は帳尻が合わない
感謝ではなく証拠で示す世界
世の中は、情で動いてるようで、登記の世界では証拠がすべてだ。いくら尽くしたと言っても、それを示すものがなければ評価されない。「感謝」を帳簿に書き込む方法は、残念ながら存在しない。
私も含め、家族のこととなると冷静さを失いがちだ。だが司法書士は、冷静さを失わない職業でなければならない。……胃薬は常備しておくとして。
最後に笑ったのは誰か
遺産分割協議書に書かれた小さな名前
最終的に、遺産分割協議書には次女の名がきちんと記載され、彼女には一定の寄与分が認められた。長男は不満を漏らしながらも、署名した。
光ったのは寄与分ではなく、黙って支えた者の静かな誇りだった。そして私の方は、ようやく温くなったコーヒーをすすりながら、事務所の窓を開けた。「やれやれ、、、夏の事件は胃にくる」