朝の電話はいつも不穏
「境界杭がなくなってるんだよ。困るんだよね、シンドウ先生」 そう言ってきたのは、近所で評判の地主・柿本だった。彼の声はいつもながら濁っていて、何かを隠しているようだった。
「やれやれ、、、朝からこれかよ」と呟きつつ、僕はまだ冷めきっていないコーヒーに口をつけた。今日も一日、胃の重さと向き合うことになりそうだ。
無愛想な地権者の声
柿本は年の割に強気な人物で、地元でもトラブルメーカーとして名を馳せていた。 「杭がなくなるなんてありえませんよ、ちゃんと登記したじゃないですか」と僕が言うと、「だから困ってるんだ」と苛立ちを募らせる。
電話越しの声は何かを誤魔化しているように思えた。まるで、自分の芝生に猫の足跡がついたとでも言いたげな騒ぎっぷりだった。
境界杭が見当たらないという報告
問題の土地は、柿本が数年前に分筆して売った敷地との境目だった。 杭がなければ、当然揉める。けれど、それだけで司法書士に連絡してくるあたり、何か裏があるとしか思えない。
「現地、見に行きますよ」と言った瞬間、「そうしてくれ」と電話が切れた。なんとも一方的な依頼だ。
現場に立つと吹く風が違う
早速車を出すと、助手席には無言で乗り込んできたサトウさん。今日も手際よく地図と登記簿を用意している。
「こんな寒い朝に境界杭の話とか、嫌がらせですかね」と彼女がつぶやく。僕は黙って頷くしかなかった。
サトウさんの冷静な観察
現場に着くと、明らかに不自然な窪みがあった。杭が抜かれた跡だ。 「ここ、車のタイヤ跡が残ってます。最近誰かが車で乗り込んだ可能性がありますね」とサトウさん。
僕はうっかり、足元のぬかるみに靴を取られながらも、周囲を見渡した。「杭は誰かに引き抜かれた。それは確かだな」
境界を主張する二つの声
問題の土地には、新たな家が建設中だった。現場監督が話を聞いてくる。「杭? あー、ありましたけど、工事のとき邪魔だったんで……」
その言葉に、サトウさんの目が細くなる。「許可なく動かすのは、ダメなんですよ?」 「え、そうなんですか?」と現場監督が首を傾げた。
古い図面と新しい地図
法務局に戻り、地図を確認すると、どうにも腑に落ちない。数年前の分筆前の図面と、現在の公図が微妙に食い違っている。
「あの杭、もしかしたら誤差を隠すためにわざと……?」と僕が言うと、サトウさんは黙って別の資料を出した。
法務局での手がかり探し
それは五年前に作成された境界確認書だった。双方の地権者の署名があり、立会人として柿本の名前も記されていた。
「これって、杭の場所をあらかじめ固定してたってことですよね」とサトウさん。 つまり、柿本は杭の位置を知っていた。にもかかわらず、今回『なくなった』と主張した。
謎の境界確認書の存在
境界確認書にはもう一つ、奇妙な点があった。柿本の署名の筆跡が、今日提出された書類のものと微妙に異なる。
「やれやれ、、、今頃気づくとは」と僕は肩を落とした。これは、筆跡鑑定に出すレベルの話かもしれない。
空白の五年と不在の隣人
境界確認の立会人にもう一人、名前があった。かつての隣地所有者・藤岡という人物だ。しかし彼は今、所在不明となっている。
「これ、行方不明じゃなくて、もしかしたら“消された”可能性も」とサトウさんが冷たく呟いた。
土地を売ったはずの男の影
藤岡の名前で登記された過去の土地の一部が、なぜか現在、柿本の名義になっていた。 売買の記録はあるが、本人の署名と印影がどこか怪しい。
「藤岡が署名してない可能性、あるな。つまり、偽造……?」僕の背中に冷たい汗が流れた。
失踪か逃亡かそれとも
実際、藤岡が最後に目撃されたのは四年前。その後の記録が一切ない。行方不明届も出されていない。誰も探していない。
「おかしいでしょ。売ったはずなのに、誰もその人の話をしないなんて」とサトウさんはきっぱりと言った。
杭が教える証言の矛盾
再度現地に足を運んだ。そこにあったのは、別の場所に差し直された杭だった。微妙にずれたその位置。
「この位置に杭を戻すと、面積が数平米増える。つまり……」 「そう。隣地の境界を侵食する形になるんです」とサトウさん。
位置が語るもう一つの事実
杭が動かされたのは、ほんのわずかなズレ。でも、その数平米が大きな違いを生んでいた。 現場監督も、「指示されたからやっただけ」と証言する。
「指示したのは柿本さんですね?」サトウさんの声はいつにも増して冷たかった。
やれやれ、、、気づくのが遅かったか
僕は図面を見ながらため息をついた。「こんな単純な話、もっと早く見抜けたはずだ」 だが、サトウさんは少しだけ微笑んだ。「でも、先生だからこの結末になったんですよ」
その言葉に、救われたような気がした。
真犯人は誰の隣に立っていたか
全ては境界杭の数センチのズレから始まった。だがその裏には、不正登記、偽造、失踪という闇が隠れていた。
柿本は警察に連れて行かれ、杭の偽装と筆跡の件も含めて捜査が始まった。
最後に杭を動かしたのは
結局、現場監督が最後に杭を動かしたことは確かだったが、それは指示を受けてのことだった。主犯は柿本だった。
藤岡の行方はまだ分かっていない。だが、少なくとも一歩は踏み出した。
境界の内と外に隠された動機
人は境界線の内側に安心を、外側に敵意を持つ。 その境界線をねじまげようとした時、正義の杭を打ち込むのが司法書士の仕事なのかもしれない。
「さて、帰りますか。今夜は野球中継でも見ながら、ビールでも飲もう」と僕が言うと、 「先生、テレビ壊れてましたよね?」とサトウさんが冷たく返してきた。