消えた委任状と夏の雨
午前中からぐずついた空模様だった。じめじめした湿気が、ただでさえ重たい空気をさらに押しつぶす。そんななか、僕の司法書士事務所に妙な依頼が舞い込んできた。
内容は、「登記のために作成した委任状の原本が紛失してしまった」とのこと。書類の紛失自体は珍しくない。ただ、どこか引っかかる。
依頼人の目の泳ぎ方が、何かを隠しているように見えた。
午前九時の依頼人
玄関に現れた男
扉が開いたのは九時を少し回った頃だった。グレーのスーツを着た細身の男が、濡れた傘を抱えて立っていた。歳の頃は四十代前半だろうか。目つきが鋭く、口元は緊張で固まっていた。
「委任状がどうしても見つからなくて…」と、男は切り出した。最初の一言から、どこか芝居がかっていた。
「とりあえず、内容を確認させてください」僕はそう言って、応接室へと案内した。
妙に急ぐ様子
男はやたらと話を急がせようとする。「明日までに何とかしないと、登記が間に合わないんです」その言葉に、僕の警戒心は一気に高まった。
急ぎの事情も、なぜかぼやけていて明確な理由を語らない。サザエさんで言えば、カツオがテストの点数を隠すときのような挙動不審っぷりだった。
その場では話を受けつつも、サトウさんに裏取りを頼むことにした。
偽造かそれとも錯誤か
委任状の違和感
コピーだけ提出された委任状。字は達筆だが、どこかぎこちない。「これ、本人が書いたんでしょうかね…?」とサトウさんがつぶやいた。
確かに、名前と住所の筆跡に一貫性がない。まるで、別人が模倣したような痕跡がある。
僕はペンを置いて、小さくため息をついた。「やれやれ、、、また面倒な案件だ」
日付と筆跡の矛盾
さらに調べると、委任状の日付が奇妙なことに気づく。登記申請の三日前の日付だが、その日は本人が海外にいたことが後にわかる。
矛盾点はすでに二つ。これは偶然にしては出来過ぎている。となると、意図的なものか。
「まるで探偵漫画の導入部ですね」と、サトウさんが冷静に言った。
サトウさんの冷静な指摘
印影に潜む不自然さ
印影も不自然だった。朱肉がやけに濃く、輪郭がぼやけていない。これは事前に押したものではなく、あとから「きれいに押す」ことを意識した跡だ。
「偽造印鑑の可能性もあるわね」とサトウさんは言う。こうなると、もはや司法書士として無視できない。
僕は立ち上がった。「よし、ちょっと動いてみようか」
いつもの塩対応と推理の切れ味
「珍しくやる気ですね」とサトウさんは言いながらも、PCを操作して旧所有者の氏名と過去の登記履歴を調べ始めた。その手つきはまさに名探偵のようだ。
「ちょっと、これ…怪しいですよ。名義が一度、全く関係のない第三者に移転してます」
塩対応で言葉は冷たいが、切れ味は抜群だった。
調査の始まりと元同級生の電話
登記簿から辿る旧所有者
登記簿には一つだけ不可解な移転記録が残っていた。仮登記から本登記への移行が、なぜかたった一日で終わっている。しかも、当事者の連絡先が空欄。
これは普通じゃない。通常なら司法書士の氏名、連絡先が記載されている。
僕は直感で感じた。「誰かが、書類を隠している」
不自然な住所変更の履歴
登記簿をさらに追うと、所有者が過去に何度も住民票の住所を変えていたことがわかる。しかも、変更のたびに名義変更や委任状が絡んでいる。
意図的に住所を点々とさせ、情報の流れを断ち切ろうとした形跡があった。
サトウさんがぽつりと言った。「多分、この人もう…生きてないんじゃないですか?」
市役所に残されたヒント
原本台帳の空白欄
市役所で閲覧した台帳に、奇妙な空白があった。記録上、住民票が発行されたはずなのに、原本が見つからない。
担当職員は首をかしげながらも、「何か手違いがあったのかもしれません」と言った。
だが僕は確信した。これは手違いではなく、誰かが意図的に「消した」ものだ。
失われた住民票の写し
唯一の手がかりとなるはずだった住民票の写しも、依頼人の持ち物からは見つからなかった。
「提出したと言っていたけど、そもそも発行された記録すらないって…もう黒ですね」
サトウさんの声に、少しだけ緊張がにじんでいた。
意外な場所にあった証拠
封筒に挟まれた一枚の紙
事務所に戻ると、机の上に依頼人が置いていった封筒があった。何気なく開けてみると、そこには破りかけの住民票の写しが一枚。
「自分で出したくせに、証拠を持ち帰ったのか?」呆れながらも、決定的な証拠だった。
やれやれ、、、最後にはこうして尻尾を出すのが人間というものか。
雨に濡れた宛名
その紙には宛名があった。差出人は、依頼人とは異なる女性の名義。これで全てがつながった。
この登記は、亡き親族の名義を不正に変更するための工作だったのだ。
「刑事案件ですね」とサトウさんがため息をついた。
やれやれの一服と真相の糸口
缶コーヒーとタバコの香り
事件の整理がひと段落ついた夕方。僕は自販機で買った缶コーヒーを手に、事務所の裏で一服した。
タバコの煙が夏の湿気と混じって、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
「司法書士ってのは、探偵みたいなもんだな」
司法書士の勘が動くとき
小さな違和感を見逃さなかったこと。あの時の筆跡と印影の異常。それが全ての糸口になった。
僕は勘で動く人間じゃない。だけど、時には経験がすべてを語ってくれる。
その瞬間、司法書士という職業に、ほんの少しだけ誇りを感じた。
偽名で動く黒幕の正体
なりすましと相続の闇
黒幕は依頼人の実姉だった。死亡届を出さず、本人になりすまして委任状を偽造し、相続手続きを進めようとしていた。
その背景には借金と家庭の事情が絡んでいた。人間ドラマというより、泥沼だった。
「サザエさんではこうはいきませんね」と、僕は独りごちた。
戸籍謄本が語る過去
最後の決め手となったのは、実姉がすでに別の名義で養子縁組していたという戸籍情報だった。
これにより、本人であると名乗る資格すらないことが証明された。
やれやれ、、、戸籍ってのは嘘をつかない。
最後の一手と登記の取消し
法務局での静かな逆転劇
提出された登記申請はすべて差し戻し、委任状の無効と本人確認情報の不備を正式に指摘した。
法務局の担当者も、こちらの書面に目を通すと納得した様子でうなずいた。
司法書士として、久々に満足できる逆転だった。
委任状は誰のものだったのか
結果的に、委任状の原本は見つからなかった。しかし、その筆跡と経緯から、依頼人が本人でないことは明白だった。
つまり、「誰のものだったか」よりも、「誰のものではなかったか」が重要だったのだ。
真実は、時に否定形から浮かび上がる。
事件の終わりと残された後味
サトウさんの一言
「シンドウさん、昼飯まだでしょ」いつものように冷たく言われて、ようやく自分が空腹であることに気づいた。
「あぁ、そうだった。もう三時か…」
「今日はカップ麺で我慢してください」それが彼女なりのねぎらいだと、ようやく分かってきた。
今日もまた雨が降る
事務所の窓の外では、また小雨が降り始めていた。湿った風がカーテンを揺らし、静けさを連れてくる。
もう一件、相談が入っていたのを思い出す。「やれやれ、、、」と、僕はまた立ち上がった。
雨はやむ気配を見せず、司法書士の一日はまだ終わらない。