朝の電話と依頼人の沈黙
午前九時過ぎ。コーヒーの湯気も立ち上がらないほど、まだ頭がぼんやりしている時間帯に電話が鳴った。 受話器越しの女性の声はやや震えていたが、落ち着き払った語り口で名義変更の相談をしたいという。 だが、こちらからいくつか質問を重ねると、明らかに話を逸らすような応答が続いた。
サトウさんの冷静な分析
「…あの人、何か隠してますね」 受話器を置いた瞬間、サトウさんが静かに言った。彼女は普段から相手の声のトーンや間の取り方から嘘を見抜く。 「話の筋が通っていない。父の名義を娘に移すという割に、権利証も委任状もまだ揃ってないっておかしいです」 わたしはうなずくしかなかった。
依頼内容は名義変更だった
正式に来所した彼女は、役所で見かけるような地味なスーツに身を包んでいた。 「父が認知症になりまして、将来を見据えて…」 そう言いながら差し出した書類には、確かに土地の情報と共に、今は亡き祖母の名前が記されていた。
わざと間違えた登記簿の住所
何気なく見たその登記簿には、わたしの記憶を刺激する間違いがあった。 「番地が違いますね。これ、わざとやってませんか?」 彼女は一瞬目を伏せてから、「はい」とだけ答えた。理由を聞くと「父の過去を知られたくない」と。
古い権利証の違和感
彼女が持参した古い権利証。それは昭和四十年代のものだったが、紙の色がやけに新しい。 しかも記載されている住所は実際の地番と微妙に違っていた。 「これ、どこかで作り直しました?」 またしても黙る依頼人。これは単なる名義変更ではない。
過去をたどる登記簿調査
気になった私は、法務局の閉鎖登記簿を取り寄せてみた。 手書きの筆跡が並ぶその記録には、かすかに覚えのある名前が。 昭和のある時期にだけ所有者となっていた「ハナエ」という人物。それは、確か…
閉鎖された謄本に現れた名前
「このハナエさん、うちの町で一時期だけ話題になったことがある人です」 サトウさんが調べてくれた町の図書館資料には、当時の地元新聞の切り抜きがあった。 隠された養子縁組、遺産相続の訴訟。その中で“娘の存在を隠したまま”という記述があった。
本人確認情報と齟齬のある署名
新しい委任状に記された筆跡が、権利証の署名と明らかに異なっていた。 「これ、別人が書いてますよね」 筆跡鑑定まではできないが、明らかに線の太さも筆圧も違う。 依頼人はもう隠しきれないと観念したように、静かに語り出した。
司法書士の記憶が導く証拠
実は、その名前――ハナエ――に心当たりがあった。 もう十五年も前、司法書士になりたての頃。田舎の村で行った無料相談会で出会った一人の女性。 「わたしには娘がいるんです。けど世間には言えないんです」 そんなふうに彼女は寂しそうに笑った。
かつて訪れた村の空き家
その村は今、過疎化が進んでいるが、件の物件は今もそのまま残っていた。 誰も住んでいないはずなのに、ポストには最近の広告が詰まっている。 誰かが頻繁に出入りしている気配。わたしは背筋に冷たいものを感じた。
昔の登記相談会で交わした言葉
「娘だけは、幸せになってほしい」 ハナエが最後に語ったその言葉が、なぜかずっと記憶に残っていた。 今回の依頼人が名乗った名字と、あのときの住所と、過去と現在が線でつながった気がした。
依頼人が隠していた真実
彼女はハナエの実の娘だった。そして、戸籍には記録されていないその事実を、 どうしても世間に知られたくなかった。相続のために作り直した権利証。 だが、それは法律的にも、道義的にも許されるものではなかった。
家族写真に写るもう一人
彼女がカバンから取り出した古びた写真には、祖母と、若かりし日の母、 そして幼い自分が並んで写っていた。三人家族、ただそれだけの真実。 わたしは、その写真を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
なぜ彼女だけが知っていたのか
戸籍にも記録にも残らない過去。 それを知っていたのは、彼女だけだった。だからこそ、登記という制度の網からこぼれていた。 わたしの記憶が、唯一の裏付けだった。
司法書士が選んだ結末
登記の正確性と、人としての情の間で、悩みに悩んだ。 だが、偽造書類を使っての登記は認められない。 「過去を変えることはできません。でも、未来の手続きを支えることはできます」 そう伝えたとき、彼女は深く頭を下げた。
登記では解決できないこと
制度は冷たい。だが、人の人生はあまりに複雑だ。 司法書士という職業が扱えるのは、そのほんの一部に過ぎない。 「これが、正しい道だと信じるしかないですね」 彼女の言葉が、わたしの胸に染みた。
やれやれと漏らした一言
事務所に戻ると、サトウさんが黙って温かい缶コーヒーを差し出してきた。 「今回の件、ギリギリでしたね」 「…やれやれ、、、ほんとにな」 缶を開けた音だけが、静かな部屋に響いた。