午前八時の登記申請書
静かな朝の事務所に、一本の電話が鳴り響いた。コーヒーを淹れようとしていた私は、受話器を取る手を止めた。相手は昨日の午後に登記の相談に来た女性、斎藤真理と名乗る人物だった。
「今朝、彼が急に婚約を破棄してきたんです。理由も告げずに」と、取り乱した様子で話す。彼女は涙声で「昨日渡した登記申請書、まだ出してませんよね?」と確認してきた。
何かあるな。私はすぐに机の引き出しからその申請書を取り出した。だが、そこに記載されていた住所が、彼女が説明した住所とは微妙に異なっていたのだ。
サトウさんの違和感
「この申請書、どこかおかしくないですか?」サトウさんが無表情でつぶやいた。彼女の目は、私のような凡人が見逃すような細部を的確にとらえる。
「この筆跡、本人じゃないですね。それに、添付書類の日付も変。婚約破棄の直後に登記申請を急ぐ理由、気になりますね」と淡々と述べた。私は思わず「やれやれ、、、」と肩を落とした。
こんな朝っぱらから事件の匂いだ。ドラマじゃないんだから、こっちは業務で忙しいんだよ、、、と、内心ぼやきつつもその申請書を見つめ直した。
二重の委任状
ふと、申請書の裏に添付された委任状を確認すると、そこにはもう一枚、まったく別の日付の委任状が紛れていた。しかも名前は同じだが印影が異なる。
「どういうことだ?」私は首をひねった。通常、一件の登記に二重の委任状が存在することはない。これは意図的な何かか、それとも、、、
サトウさんはすぐに資料を精査し始めた。いつの間にか登記簿の写しまで手元にある。まるでどこかの名探偵のように。
愛か偽装か
登記簿には、すでに同一人物による登記記録が存在していた。しかし、それは現在の住所ではなく、数年前に別れた「元婚約者」の名義になっている。
つまり、彼女は元婚約者の名義で再び登記をしようとしていたのだ。それも、今回の婚約者の住所で。これが「恋の証明」なのか、それとも復讐の一環なのか。
サトウさんがポツリとつぶやく。「愛ってのは、、、一種の契約みたいなもんですね」私にはその言葉が、やけに重く響いた。
男と女と相続登記
申請の形式上は、相続による所有権移転という形をとっていた。だが被相続人の死亡証明書が添付されていない。つまりこれは偽装の可能性がある。
「このパターン、昔サザエさんの波平がやらかしてた相続放棄の回に似てますよ」サトウさんが冷静にボケてくる。私は思わず苦笑したが、それどころではない。
斎藤真理が提出しようとしていた書類一式は、登記官に出す前に止めなければならない。私は電話を手に取った。
封印された関係
電話の向こうで、相手の男性がため息をついた。「彼女とは、、、もう終わったと思っていたんです。でも、彼女がまだ、あの家に執着しているとは」
男は、新しい恋人との新居としてその物件を使う予定だった。だが、そこに「元カノ」が登記をかぶせてくるとは思っていなかったのだ。
「そういうことなら、こちらからも何らかの措置を取らせてもらいます」と、彼は言い、電話を切った。
サザエさん式人間模様
人間関係のもつれってやつは、案外テレビアニメみたいに単純じゃない。ワカメが好きなタラちゃんの作文が波平を怒らせるくらい複雑だ。
恋愛と登記。縁もゆかりもないようで、実はすぐ隣にいる存在だったりする。名前一つ、住所一つで、どれだけ多くの人生が交差するか。
私は書類をそっとファイルに戻し、しばらく考え込んだ。
磯野家より複雑な家族図
婚約者、元婚約者、新恋人。そこに加わる親名義や相続未了の問題。これはもう、ルパン三世の血縁関係よりややこしい。
「私なら、こんな恋、最初から登記しませんけどね」とサトウさんが言った。皮肉か真理か、いや、どっちもだ。
やれやれ、、、ほんと、うちの事務所は恋愛の墓場かもしれない。
机の中の恋文
ふと気になって、私は提出されなかった封筒を開封した。中には直筆の手紙が入っていた。昔のような丁寧な文字でこう書かれていた。
「たとえあなたが別の誰かを選んでも、私はあなたの隣に家を建てます」それは、少し怖くて、でもどこか切ない決意の言葉だった。
私はそれをそっと元に戻した。そして書類一式を、依頼人に返送する手続きを取った。
事務員が見つけた決定的証拠
結局、サトウさんが見つけた小さな不一致が、この一件の核心を突いた。手書きの誤字、印影のかすれ具合、どれも見逃せない「証拠」だった。
「探偵ごっこもたまには悪くないですね」と、彼女は冷たく笑う。私はただ、「ありがとう」とだけ返した。
事務員は見た。恋の証拠も、偽装の痕跡も。やっぱりうちの事務所のエースは、間違いなく彼女だった。