気づけば誰かの都合ばかりを優先していた
司法書士という仕事柄、予定は常に「誰かのため」に埋まっていく。お客様の都合に合わせて相談を入れ、法務局や裁判所の締切に従って動く。もちろん大切な仕事だけれど、自分で自分の時間を決めることがほとんどない。昔は「仕事があるだけありがたい」と思っていたが、気がつけばスケジュール帳に“自分発”の予定がひとつもなかった。毎日誰かの都合に合わせて動いていて、「自分の人生って誰が運転してるんだ?」とふと立ち止まってしまったのだ。
事務所の予定もお客様の予定も自分発ではない
朝起きてから夜寝るまで、事務所の電話とメールに追われる日々。お客様の希望に応じて予定を詰め込み、少しでも空白があれば「この時間に登記申請をやってしまおう」となる。事務員さんにも気を遣い、「自分のことは後回しで」と我慢してしまうことが多い。予定がびっしり埋まっているのに、自分のやりたいことはひとつも入っていない。それが仕事というものかもしれないが、こういう生活を10年も続けていると、少しずつ心のどこかがすり減っていくのを感じる。
いつの間にか“空いてる時間=働く時間”に
昔、先輩に「空き時間があれば、それは仕事を詰め込めるチャンスだ」と言われたことがある。その言葉を真に受けて、空き時間を見つけるたびに仕事をねじ込む習慣がついてしまった。結果的に、自分の身体や気持ちのメンテナンスなんて後回し。昼飯を食べそびれた日も、トイレを我慢していたことさえあった。空いてる時間は休むための時間じゃなく、働くための余白になっていたのだ。これが良くないとはわかっているけれど、止め方がわからなかった。
断れない性格が自分を追い詰めている
性格的な問題もあるのだろう。「申し訳ないんですが、その日は予定があって…」と断ることが、どうにも苦手だ。断るくらいなら、無理してでも入れてしまう。そうしてどんどん自分の首を絞めていく。誰かのために動くことにやりがいは感じるけれど、それが続くと自分の存在が薄れていく。「僕がいなくても回るんじゃないか」と思う日すらあった。そんな気持ちになる前に、自分のことも大切にする練習を始めるべきだったのだろう。
予定表に“自分のこと”を書くことへの罪悪感
ある日、ふと「来週のこの日、午前中だけでも何か好きなことしよう」と思って予定帳を開いた。でも、ペンを持った手が止まる。なんだかものすごく悪いことをしている気持ちになった。「こんな時期に遊び?」とか「時間あるなら相続登記進めたほうがいい」とか、頭の中で何人もの“上司”が囁いてくる。自分のための予定を書くのに、こんなにも罪悪感を覚えるなんて思わなかった。真面目すぎるのか、責任感が強すぎるのか、少しだけ泣きたくなった。
「そんな時間があるなら仕事をしろ」と誰かが言ってる気がする
実際には誰にも責められていないのに、どこかで「そんな余裕あるなら書類早く出せよ」と言われているような気がしてならない。これは完全に自分の思い込みなのだが、長年「働いてこそ価値がある」と信じてきた結果、自分自身が自分を監視するようになっていた。お客様のため、事務所のため、社会のため──そうやって正論で自分を縛り続けて、気づけば“何もしてない時間”に不安を感じる体質になってしまったのかもしれない。
それでも他人には優しくできるから余計に辛い
不思議なことに、他人の予定にはちゃんと配慮できる。「その日はお子さんの行事ですよね」「体調どうですか」と気遣えるのに、自分のことになるとまるで無関心。自分の風邪は放っておくのに、事務員さんが咳をしたらすぐに「早退していいよ」と言ってしまう。このアンバランスさがずっと自分の中にあって、優しさなのか自己否定なのか、もはやよくわからない。ただ、他人にはできることが自分にはできないというのは、けっこう堪える。
予定を入れなければ自分のことは一生後回し
このままではまずいと気づいたのは、夜中に突然涙が出たときだった。原因はわからない。でも、何かが限界を超えていたのは確かだった。あの時、「あ、自分っていないがしろにしてたんだな」と気づいた。予定表に自分のための予定がなければ、自分を後回しにして当然だ。だから意識的に“空ける”ことにした。たとえば「14時〜16時はカフェで過ごす」とか、「午前中は自転車で遠回りする」とか。誰にも説明しないけど、自分にだけは堂々と理由をつけていい。
“空いてる”ではなく“空ける”という発想の転換
予定は“空いてる時間に入れる”ものだと思っていたが、そうではない。“空けるために意識して作る”ことが必要だったのだ。誰かのための予定を優先するのではなく、自分のために先に空白を作ってしまう。これをやってみたら、不思議と少し気持ちが軽くなった。「予定があるからこの日は休めない」ではなく、「自分の予定があるからこの日は動けない」と言ってみたら、なんだかすごく勇気が出た。小さな一歩だけど、大きな違いだった。
結局、何も予定を立てないと、洗濯して終わる休日
「予定を入れなければ休める」と思っていたのは間違いだった。何も書かれていない休日は、洗濯して掃除して、夕方にはテレビをぼーっと見て終わってしまう。もちろんそれも大事な時間かもしれないけれど、「自分のために使った」という実感は薄い。積極的に“楽しむための予定”を入れるようになってから、時間の満足度がまるで違う。予定があるからこそ心の準備もできて、ちゃんと“自分と過ごす時間”になっていくのだと思う。
最初に入れた自分の予定はコンビニでアイス買うことだった
最初に手帳に書いた「自分のための予定」は、なんてことはない「コンビニで好きなアイスを買う」だった。バカバカしいと思われるかもしれないけれど、あの瞬間のわくわくは今でも覚えている。夜にそのアイスを食べながら、「今日、自分の予定をちゃんと叶えた」と思えたのが嬉しかった。どんなに小さなことでも、自分の意思で予定を入れることには意味がある。誰かに評価されなくても、自分が自分にOKを出せた。それだけで十分だった。
それでもなぜかちょっと救われた気がした
その日から、週に一つだけ「誰のためでもない予定」を入れるようにしている。もちろん仕事に支障がない範囲で、ささやかなものばかり。でも、たったそれだけのことで自分を少し取り戻せるような感覚がある。「この日を楽しみに生きよう」と思えるだけで、やる気の質が変わるのだ。誰かのために動くのも素晴らしいけれど、それは自分が元気でいることが前提だ。そのことに気づけたのは、小さなアイスのおかげだった。
元野球部でも休むことには慣れてない
昔から根性論で生きてきた。元野球部というのもあって、「疲れてるとか言うな」「水を飲むな」と言われて育った世代だ。だから“休む”という行為自体に罪悪感があるし、そもそも休み方がわからない。でも、だからこそ今、自分のペースで休む練習をしている。予定を入れて、その時間を守る。休みも予定の一部なんだと割り切ってみたら、ようやく“生きている感覚”が戻ってきた。休むことも、大切な業務のひとつかもしれない。