はじまりは一通の遺言書
それは午後のコーヒーがようやくぬるくなった頃だった。ぽつんと事務所の扉が開き、くたびれたスーツ姿の中年男が入ってきた。彼が差し出したのは、黄ばんだ封筒一通。
「これ、父の遺言なんですが……中身を見てびっくりしまして」
そう言って彼は頭を下げた。封筒の角には、昭和の香りが漂う筆文字で名前が記されていた。
古びた封筒に書かれた名前
封筒の表には「井口家 相続関係書類」とある。聞いたことのある名字だと思った瞬間、事務員席のサトウさんが静かに目線を上げた。
「井口……この辺で有名だった地主ですね。10年前、問題になったはずです」
そんなことすら記憶にない私は、ペラリと中の遺言書を開いた。
依頼人の戸惑いと不信感
内容はごく普通の相続に見えた。だが、末尾に小さく書かれた「別途不動産については仮登記の扱いを維持すること」という一文が妙に引っかかる。
「父は何かを隠してたんでしょうか?」依頼人の問いに、私は肩をすくめるしかなかった。
やれやれ、、、またややこしい案件が来たらしい。
登記簿に残された不可解な記載
翌日、市の法務局で確認した不動産登記簿には、不可思議な点がいくつもあった。
本登記とは別に、数年前の仮登記がそのまま残されていた。しかも、その名義人の住所が今は存在しない番地になっている。
明らかに何かが途中で止まっている印象だった。
名義人の名前が二重に存在する理由
仮登記と本登記に、同じ名前が異なる筆跡で記されている。まるで別人が同じ人物を装っているような。
「サザエさんの波平の字が毎回違う回、知ってます? あれくらい違いますね」
サトウさんが静かにそう言って、ルーペを差し出した。
過去の仮登記に潜む違和感
仮登記の申請人は依頼人の父、つまり故人だ。だが、登記の受付日が亡くなったはずの翌日になっていた。
「死人が登記するなんて、現代版の妖怪ですね」と、またも塩対応のサトウさん。
冗談とは思えないこの事態、さすがに私でも背筋が寒くなる。
サトウさんの鋭いツッコミ
事務所に戻ると、すでにサトウさんは別件の登記申請書類を机に並べていた。だが私の顔を見るなり言った。
「あの不動産、もしかして2年前にも仮差押え出されてますよ。通知記録が残ってます」
まるで探偵漫画の助手のような頭のキレだ。少しだけ悔しい。
「この書類、おかしいですね」
机上に置かれた申請書と登記原因証明情報。日付と名前が合っていない。
「これ、偽造の可能性ありますね」とサトウさんがポツリと呟いた。
彼女の口から「可能性」と出たら、それはほぼ「確定」と言っていい。
重なり合う日付の謎
故人が亡くなった日、仮登記がなされ、さらに誰かが本登記を妨害するような申請をしていた。
「つまり、誰かがこの物件を意図的に宙ぶらりんにしたかった?」
答えは沈黙の中にあった。
被相続人が生前に隠していた真実
書類の束を洗い直すと、古いファックスコピーの中にもう一通、手書きの遺言が挟まっていた。
そこには「長男に全てを相続させるが、次男には家を売って分けること」と記されていた。
だが実際、家は売られていなかった。なぜか。
見落とされていたもう一通の遺言書
その手書きの遺言は、正式なものではなかった。証人もいない。
だが筆跡は一致していた。問題は、この文書を誰が隠したのか、だった。
「不動産の所有を巡る兄弟喧嘩ですね」と、またサトウさんが冷たく言い放った。
「あの人がそんなことを……」
長男は善人然としていた。だが、過去に何度か差押えをくらっていた形跡がある。
家を売れば弟に利益が渡る。だが仮登記のままなら……?
答えは一つだった。あの登記をわざと止めたのは、兄だった。
調査は司法書士会館の地下書庫へ
私は自転車にまたがり、司法書士会館へ向かった。地下書庫で古い申請記録を調べるためだ。
電動アシストが欲しいと思いながら、ペダルを漕ぐ。こういうとき、元野球部の体力が恨めしい。
やれやれ、、、夏の汗は心の毒だ。
久々に埃をかぶった
地下書庫は相変わらず湿っぽく、昭和の書類の匂いが充満していた。
目的のファイルを見つけたとき、手がほんの少し震えた。
中には登記官の押印された訂正申出書が一枚。
誰にも見せられなかった登記変更申請
それは次男が提出しようとした申請だった。だが、兄により提出を阻止された形跡がある。
日付と照合すると、仮登記のあと、次男が必死に手続を試みたが却下されたことが見えた。
兄は遺言を無視し、自分の利益を守ったのだ。
登記官の証言が明かす意外な事実
その後、法務局の登記官に話を聞くと、彼も記憶していた。
「あのときは、身分証に違和感があったんですよ。提出者の態度もおかしくて」
登記官の証言が、兄の仕業を裏付ける形となった。
数年前の面談記録と記憶
記録には「本人確認が不十分につき保留」と記載されていた。
だが兄が提出した書類は、不動産業者経由だったという。
不自然なルートが、真相を物語っていた。
「本人確認書類がすり替えられていた」
運転免許証のコピーは、不鮮明で細部が不一致だった。
サトウさんがそれをスキャンして、照合してくれた。
「これは、別人の写真を貼り替えてますね。見え透いた工作です」
真犯人は意外な人物
調べが進むにつれ、事件の裏にいた人物が浮かび上がった。
それは兄の義理の息子だった。表向きは関係ない立場だったが、申請に関与していた。
彼が不動産の利益を目当てに、すべてを操作していたのだ。
第三順位の相続人の思惑
第三順位――つまり、兄が亡くなれば彼に権利が移る。
仮登記のまま時間を稼げば、家は彼のものになる計算だった。
司法書士である私すら唸るほどの計算高さだった。
動機は家ではなく名誉だった
彼は地元で政治を目指していた。家の所有は、地盤固めの象徴だった。
「遺言なんて感情論に過ぎない」と彼は笑っていた。
だが、法律の前にその言葉は無力だった。
サトウさんが突きつけた決定的証拠
最後の一手は、サトウさんの手にあった。
通帳の筆跡、契約書の署名、そして遺言書の筆跡。
それらを彼女は完璧に照合し、矛盾点をあぶり出した。
通帳の筆跡と遺言書の照合
通帳の入金欄に書かれた「イグチ」の文字。
遺言書の署名と一致する点を、彼女は指摘した。
「これは、間違いなく同じ人物の手です。仮登記は遺志に基づいてます」
「これは、間違いなく同じ人物の手です」
サトウさんの言葉で、全てのパズルが揃った。
兄の息子が仕組んだ偽装工作は、完全に破綻した。
私たちは、依頼人と共に法的措置に移ることになった。
解決と、その後の静かな夕暮れ
夕暮れの事務所。私は湯気の立たないコーヒーを啜った。
サトウさんは黙って書類を片付けていた。
「ま、正義ってのは地味なもんだな」と独りごちた。
シンドウのため息とコーヒー
心地よい疲労感が、背中を包む。
やれやれ、、、ようやく一件落着か。
サトウさんはその言葉に、微かに口元を緩めただけだった。
「ま、正義ってのは地味なもんだな」
正義は派手に叫ぶものではない。
ただ、静かに記録に残すものだ。
それが司法書士という職業なのだろう。
そしてまた、日常が戻ってくる
窓の外では、蝉が最後の力を振り絞っていた。
扉が閉まり、事務所には再び静けさが戻る。
私は机に向かい、また山積みの案件を睨みつけた。
事務所の扉が静かに閉じた
依頼人が帰り、ドアがカタンと閉まった。
その音が妙に心に沁みた。
事件は終わったが、日常は終わらない。
机の上の未処理書類とサトウさんの無言
サトウさんは何も言わず、私の机に新しいファイルを置いた。
「次の登記、急ぎです」その一言で、現実に引き戻された。
やれやれ、、、この世界に平穏なんてものはないらしい。