ある日届いた不動産の相談
朝一番に事務所へ届いた封筒には、築五十年を超える空き家の登記情報と、相続登記の依頼が記されていた。差出人は依頼人の娘で、すでに父が行方不明となって二十年が経っていた。通常の案件であれば、戸籍を取り寄せて粛々と処理するだけのはずだった。
だがこの登記簿には、どうも釈然としない“余白”が存在していた。正確には、記載されているはずの補正欄に、何も書かれていなかったのだ。
消えた父と空き家の謎
父親が失踪したのは、平成のはじめ頃。当時は警察にも届けたが、結局行方はわからず、今では失踪宣告も視野に入れているとのことだった。ところが、不思議なことに登記簿上では彼の住所が十年前に「変更」されていた形跡があった。
失踪しているはずの人間が、どうやって住所を変更するのか。誰がその申請をしたのか。そして、その情報がどこにも残っていない。すでにこの時点で、ただの相続登記ではないことを私は察していた。
相続登記の申請書に違和感
依頼人が持参した申請書には、父の署名があるように見えたが、それは微妙に筆跡が違っていた。司法書士としての直感が、これは誰かが書いた「真似」だと告げていた。なのに、法務局では問題なく通ってしまったという。
「誰かがこの家を、自分のものにしようとした」その線を疑い始めた私は、資料の洗い出しを始めた。すると、ある奇妙な共通点が浮かび上がってきた。
調査のはじまり
私は昼休みも返上して、法務局へと向かった。登記簿の原本と補正書類を確認するためだ。窓口の担当者は困惑した表情で、「この物件、以前にも何件か怪しい相談があったんですよ」と漏らした。
やはり、何かがおかしい。この物件には、人を引き寄せる「利権」の匂いが漂っていた。
登記簿と戸籍のズレ
登記簿の情報と、戸籍の記載が一致しないことはよくある。だが、このケースでは完全にタイムラインがねじれていた。まるで、何者かが登記と戸籍を別々の時間軸で操作していたかのように。
平成十四年に転居届、しかし戸籍にはその記録がない。しかも失踪届すら出されていない。これは、誰かが意図的に「宙ぶらりん」の状態を作っている。
行方不明者の手続きと壁
通常、失踪宣告を受けるには七年が必要だ。しかし今回のケースでは、それが行われずに進んでいた。誰が、どの立場でそれを止めたのか。あるいは、止めることで利益を得た者がいたのか。
行方不明であることで、遺産が宙に浮いたままとなる。その状況を、あえて維持しようとした意図があるのだろうか。
サトウさんの冷静な指摘
「シンドウさん、これ……ちょっと変です」 デスクに書類を並べていた私に、サトウさんが声をかけた。相変わらずの塩対応だが、言っていることは鋭い。
「補正欄の空白、実はそこに元々“何か”が書かれていた可能性ありません?消された、とか」 私はその指摘にハッとした。確かに、薄くペンの痕のようなものが見える。
司法書士法と時効のヒント
司法書士として、私は業務上知り得た事実をもとに行動できる。しかしそれには、確実な根拠が必要だ。サトウさんの言葉がヒントになり、私は法務局の保存文書の開示を求めた。
保存期間ぎりぎりだったが、奇跡的に十年前の補正申請書の控えが残っていた。そこに記されていたのは――見覚えのある名前だった。
書類の筆跡に隠されたヒント
筆跡鑑定の専門家に頼むと、やはり十年前の補正申請と、依頼人の筆跡が一致していた。つまり、父が失踪しているとされながらも、彼自身が申請していたのではなく、娘本人がなりすましていた可能性が出てきた。
「やれやれ、、、」私は天井を見上げた。またか、と思わずため息をついてしまった。 だが同時に、核心に近づいている感覚もあった。
関係者への聞き取り調査
私は依頼人に直接話を聞くことにした。正面からは問い詰めず、あくまで情報収集の体で。娘は最初こそ警戒していたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「父は……生きてます。多分。でも、私、もう関わりたくなくて」 その一言が、全てをつなげた。
近所の老女の証言
現地へ足を運び、近所の住人に聞き込みをした。昔から住んでいる老女が、何気なく言った。「あのお父さんね、数年前にこっそり戻ってきたことあるよ。すぐどこか行っちゃったけど」
やはり生きていた。そして、登記を使って何かを整理しようとしていたのだ。だが、家族との間には決定的な断絶があった。
遺産をめぐる兄弟の確執
依頼人には兄がいた。兄は東京で暮らし、父とは絶縁状態だったという。どうやら登記に関して何らかの圧力がかかっていた可能性もある。娘はその間で板挟みになっていたのだ。
結果として彼女は、父がいなくなったことにした方が楽だと判断し、法的に「消す」手続きをした。それが、すべての発端だった。
真相の核心に迫る
私は報告書をまとめながら、自分が司法書士という立場でありながら、ここまで人間関係の泥沼に踏み込んでいることに、少しだけ疲れを感じていた。
だが真実にたどり着けたことには、ある種の充足感もある。誰かが消そうとした事実を、紙の余白から拾い上げたのだから。
戸籍の裏に記された一行
役所から届いた戸籍の付票。そこには、筆ペンで書かれたような小さな一文があった。「一時的に所在不明。本人希望により不掲載」 これがすべてを物語っていた。父は、自らの意思で「消えた」のだ。
サザエさんの波平さんが「ワカメ、カツオ、バカモーン!」と叫ぶ家庭とは違い、この家族には叫ぶ父も、返事をする子も、いなかった。
登記簿の余白に仕掛けられたトリック
誰もが見過ごした空白。それは、登記情報という“動かせない事実”の中に潜む、最大の謎だった。誰が、いつ、なぜ、それを書き換えたのか。なぜ空白にしたのか。
そこには、家族の悲しみと、絶望と、そして小さな希望が折り重なっていた。
司法書士の最後のひらめき
この一件を通して、私は再確認した。司法書士の仕事は、書類を整えることではない。人の想いを、法の中で形にすることなのだ。
時にその想いは、重く、哀しく、そして不可解だ。けれど、それでも向き合うしかない。そういう役回りなのだ、私たちは。
失踪者の正体と隠された動機
父親は、すでに別の土地で暮らしていた。新しい名前、新しい家族。かつての家族との断絶は、彼にとって“逃げ”ではなく、“再生”だったのかもしれない。
彼の行方は、もう追わない。だが、登記簿の余白には、確かに「彼がいた」という痕跡が刻まれていた。