謎の境界とひと通の封書
その電話は午前9時過ぎ、ちょうど一件目の登記申請をオンラインで終えた頃に鳴った。差出人は土地家屋調査士の山口。声はやけに沈んでいた。
「筆界未定地のことで一度現地を見てくれないか。あと、妙な手紙も見つかってね」と彼は言った。筆界未定地。まるで境界をあいまいにした誰かの心のようだ。
「また変な話だな」と呟いたが、どうせ暇じゃない俺に断る理由もなかった。
土地家屋調査士からの一本の電話
「シンドウさん、あんたが登記やる前にこの手紙の意味を解いてくれ。でないと、地元が揉める」山口の言葉は重かった。
俺はやれやれ、、、と天を仰いだ。どうして俺の人生にはこうも余計な謎が転がり込んでくるのか。
「で、場所は?」「高谷の古い空き家の裏手。あそこ、筆界が未定になったまま誰も寄りつかなかったんだよ」
山あいの古家と未定地の不穏な空気
山間にぽつんと残された木造の家。壁は苔むし、瓦は崩れ、周囲はすっかり藪に飲まれていた。
境界標がなく、地番も途中で途切れている。登記簿を見ても、確定できない筆界のせいで権利関係がはっきりしない土地だった。
その地面に、古びた封筒が半ば埋もれていた。表面には、かろうじて読める文字で「渡せなかった手紙」と書かれていた。
サトウさんの冷静な分析
「で、また変な物拾ってきたんですか」とサトウさん。冷たい。いや、いつもどおりか。
彼女は封筒を手袋越しに受け取ると、持ち帰って調査を始めた。速さと正確さは、もはや探偵の域だ。
俺はといえば、もらったインスタントコーヒーをすすりながら、昭和の町内会地図を見つめていた。
境界標のない土地図面
法務局の図面を広げると、確かにその土地だけ白い空白がぽっかりと残っていた。筆界未定、つまり所有者も用途も曖昧。
戦後すぐの登記で止まっており、それ以来誰も確定手続きを踏んでいなかった。
「これは法的にも情的にも中途半端ですね」とサトウさん。確かに、未練がましいラブレターみたいな土地だ。
境界確定訴訟の過去と未了の登記
さらに調べると、40年前に確定訴訟を起こそうとした形跡があった。だが、原告が途中で行方不明となり、訴訟は却下されていた。
そして驚くべきことに、その原告の名が、手紙の最後に記されていた「進一」だった。
もはや偶然では済まされない。俺たちは、土地と過去の愛憎が絡んだ事件の渦に引きずり込まれていた。
封筒の中のラブレター
茶色く変色した便箋には、直筆の文字が走っていた。「筆界を越えて、君に想いを伝えることは許されない。でも、この土地だけは俺の気持ちだ」
便箋の隅には「進一」とだけ書かれていた。封筒の裏には、消えかけた「みちよ」の名。ふたりの物語が、土地に縛られていた。
「まるで境界標の代わりに気持ちを埋めたみたいですね」サトウさんが、少しだけ目を細めた気がした。
誰にも届かぬように隠された手紙
封筒の中には、もう一枚、地図の切れ端が入っていた。そこには境界標が鉛筆で手書きされており、「ここに置いた」と書かれていた。
俺たちは現地に戻り、地図と一致する地点を掘り返した。そしてそこから出てきたのは、錆びた境界杭だった。
「あの人、本当に最後まで気持ちを残したんですね」サトウさんの声には、ほんの少し、揺らぎがあった。
やれやれまた変な案件だよ
まったく、俺の仕事はいつから恋の後始末になったんだろうか。やれやれ、、、と頭を掻く。
でもこれは、登記簿だけでは処理できない種類の事件だ。書類に書けない想いも、時に証拠になる。
「まあ、サザエさん家の磯野家とフグ田家の境界もこのくらい曖昧なんじゃないか?」と冗談を言ってみたが、サトウさんはスルーだった。
昭和の遺構に記されたイニシャル
古い倉庫の壁には、白いチョークで「S + M」と書かれていた。進一とみちよ。二人の境界を越えた想いの記録。
そのイニシャルも、雨と風でかすれていたが、最後の最後に二人の名前を裏付けていた。
これでもう、俺の役目は終わった気がする。あとは地元の人たちに任せよう。
手紙が語る告白と罪
実はその筆界未定地、相続登記もされておらず、土地の名義は戦前のままだった。だからこそ、誰にも気づかれず眠っていたのだ。
進一は登記の専門家ではなかったが、彼なりに「線を引かない」ことを選んだのかもしれない。線を引けば、別れることになると知っていたから。
そして、それが彼の罪だった。土地に、恋に、そして自分の生き方に。
意図的に筆界を曖昧にした誰かの影
結局、進一はその土地を登記せずに残した。いや、残したのではなく、残すことを選んだのだろう。
それが彼の愛の表現だったのか、それとも逃避だったのか。今となっては誰にもわからない。
でもその選択が、いま再び、俺たちをここに引き寄せた。
真実は地中に眠っていた
杭を見つけた場所からは、もうひとつ、缶に入った写真も出てきた。二人が寄り添う一枚のスナップ。
裏には「筆界がない世界で会おう」と書かれていた。まるで怪盗キッドの予告状のようだ。
愛と土地の狭間に残された、最後の手がかりだった。
登記の裏に潜んでいたもうひとつの事実
元々の所有者は、戦後まもなく他界し、以後誰も相続せず放置された土地だった。それが筆界未定地となり、長年忘れ去られていた。
だがそれを利用して、進一は「二人だけの場所」を作ったのだ。誰にも邪魔されない、小さな国境のない世界を。
今、ようやくその土地に新しい線を引くことができる。
失われた恋と法の間に
俺たちは登記手続を進め、筆界を確定させた。その一連の作業の中で、たった一通の手紙がどれだけ重い意味を持っていたかを思い知らされた。
紙切れひとつに、人生が詰まっていることがある。俺が扱っているのは土地ではなく、人の記憶なのかもしれない。
サトウさんが黙って頷いた。その沈黙が、すべてを語っていた。
登記簿では裁けない想い
「これは、登記簿じゃ記せませんね」彼女がぼそりと呟いた。
「うん。だけど、きっと誰かには伝わる」俺もまた、心のどこかでその想いを受け取っていた。
線を引くことでしか、残せないものもある。その逆も、また然りだ。
サトウさんは静かに笑った
「珍しく、まともな推理でしたね」サトウさんが小さく笑った。あの塩対応の中に、少しだけ優しさが混じっていた。
「俺にだって年に一度くらいはあるさ。冴える日が」
「でもそれ、手紙じゃなくて証拠ですから」いつも通りの皮肉が、なんだか心地よかった。
でもそれ手紙じゃなくて証拠ですから
彼女の言葉は正しい。これは証拠だ。恋の証拠。罪の証拠。そして人生の証拠。
俺はそれを、静かに封筒に戻した。そして、最後の書類にハンコを押した。
やっと、物語が終わった気がした。
解決の先に残るもの
俺たちは山を下り、法務局へと向かった。秋風が背中を押していた。
封筒はすでに、相続人に返された。彼女は涙も見せず、それを受け取って黙って帰っていった。
土地の登記が完了する頃には、あの地にまた誰かが線を引くだろう。でも、そこに込められた気持ちは、ずっと消えずに残る。