委任状が先に死んだ

委任状が先に死んだ

委任状が先に死んだ

司法書士の朝は早い。いや、早いだけでなく、妙に寒い。八月だというのに、封筒を開けた瞬間のあの違和感が背筋を冷やすのだ。ポストに突っ込まれていた分厚い封筒。それは、ある死者からの依頼だった。

届いた日付は昨日。内容は遺産分割に関する委任状。だが、それに添えられた死亡届のコピーが今朝、市役所から届いた。どういうことだ。死んだ人間が、生きているうちに送ったのか、それとも——。

「やれやれ、、、また妙な展開だな」独り言が自然と口からこぼれた。

届いた封筒

朝イチの不在通知

事務所に到着した瞬間、郵便受けに貼られた不在通知が目に入った。昨晩の配達。珍しくサトウさんが気づかなかったらしい。俺はその場で郵便局に電話し、再配達を依頼した。

30分後、茶封筒が届いた。差出人は「長谷部信夫」。確かに、最近電話で相談を受けた名前だった。だが、電話口では病気で入院中と聞いていた。封筒の中には委任状と数枚の資料。手続きは急を要する、と書かれている。

「入院中に書いたのか?」と呟きながら、書類の確認を始めた。

依頼内容の違和感

内容は単純な遺産分割協議に関する登記手続きの依頼だった。しかし奇妙なのは、委任事項に「亡くなったあとの対応を一任する」と明記されている点だ。

死亡後に有効な委任状など、存在しない。基本的に委任契約は死亡により効力を失う。つまり、書かれた日付が生前であっても、それを使って手続きを進めることはできない。

だが、この文面はどう読んでも「死んだ後も頼むよ」と言っている。まるで、漫画の怪盗が予告状を先に送ってくるようなものだ。

死亡の報

市役所からの電話

その日の昼過ぎ、市役所から電話が入った。「長谷部信夫さんが、昨日の朝に亡くなったとのご連絡です」

「昨日の朝?」思わず聞き返した。封筒の消印は、そのさらに前日。つまり、亡くなるよりも前に送られていた。が、彼は病床に伏せっていたはずではなかったか。

送ったのは本人なのか、あるいは別の誰かか。

日付が逆転していた

死亡届の記載日と郵便の消印を見比べる。死亡届の日付は八月三日、郵便の消印は八月二日。書類の作成日は「八月一日」となっている。生前である可能性はある。

だが、なぜこのタイミングで届くよう手配したのか。そしてなぜ「死亡後の手続きを任せる」などと書いたのか。委任状という紙切れが、妙な影を帯び始める。

まるで、死の直前に何かを悟った者のように。

委任状の真偽

筆跡と印影の検証

念のため、以前の相談記録に残っていたメモと筆跡を照合する。サトウさんが器用に照合表を作り、朱肉も持ち出して検証を始める。

「印影は一致してますね。筆跡も、年齢や震え方から見て本人の可能性が高いです」

淡々とした声が逆に不気味だった。

誰がいつ書いたのか

死亡直前に書いたという線が濃厚だが、病院側の証言では「三日前から意識混濁状態だった」とのこと。ならばこの文書は——。

「誰かが代理で書いた?」と口にした瞬間、サトウさんが眉をひそめた。「委任状の内容に、“俺の死後に”と明記されている時点で、普通じゃありません」

たしかに。これはまるで、遺言書と委任状の中間のような、不思議な性質を持っていた。

関係者の証言

兄が語った最期の言葉

亡くなった信夫氏の兄に会い、事情を聞いた。兄は疲れた様子で語った。「アイツ、死ぬ二日前に突然俺を呼んで、“シンドウさんに書類を送ったから、あとは頼む”って言ったんです」

「でももう、ほとんど話すのもしんどそうだったのに」

それが本当なら、やはり最後の意思は本人のものだったのか。

隣人の目撃情報

さらに、病院の隣室の患者が「あの人、夜中に看護師さんに何かを手渡してたよ」と証言してくれた。看護師はすでに転院先へ異動しており連絡がつかない。

まるで、真相がわざと霧の中へ隠れていくようだった。

不自然な一致と、わざとらしい断絶。偶然にしては出来過ぎている。

サトウさんの推理

事務所にあった謎の付箋

その日の夕方、サトウさんが一枚の付箋を見つけた。「机の引き出しの端に貼ってありました」

そこには「書類は二日前にポストに投函済」と走り書きがされていた。封筒が来たタイミングと一致する。

「本人が自分の死期を悟っていたなら、すべて辻褄が合います」とサトウさん。

郵送のタイムラグ

加えて、ポスト投函から配達までは通常1日から2日。死亡届の到着は市役所の手続きの都合で遅れている可能性がある。

「だからこそ、“委任状が先に死んだ”ように見えるだけです」

彼女の言葉に、少しだけ胸のつかえが取れた。

古い登記の記録

十年前の仮登記

気になったのは、資料に同封されていた10年前の仮登記謄本。放置されていた土地に関するものだった。

名義変更が未了のまま、相続人の一部が死亡し、いよいよ手を打たねばならなかったというわけだ。

しかし、その仮登記にも妙な点があった。

遺産争いの火種

数年前に亡くなった叔父の名義がそのまま残っており、それを誰が相続するのかで揉めていた形跡がある。信夫氏が最後に動いたのは、遺産の私物化を防ぐためだったのか。

「死後の世界よりも、紙の世界の方が複雑ですね」と俺が呟くと、サトウさんは軽く鼻で笑った。

司法書士の出番

シンドウの仮説

もしも彼が自分の死を悟り、その直前に最後の意思を送ったのだとすれば、それを法的にどう扱うかは俺の役割だ。

委任契約としては無効でも、実質的な遺言的効力があれば、手続きの参考にはできる。

グレーゾーンの処理は、いつも俺たちの仕事の醍醐味でもある。

やれやれと動き出す

「やれやれ、、、本当に死んでからも手がかかる依頼人ばかりだ」

俺は椅子から立ち上がり、登記申請書の作成に取り掛かった。やるべきことは明確だった。

死者の意思を、法の形に落とし込む。それが、司法書士の仕事だ。

犯人の目的

誰が何のために偽装したか

結局、今回の件には明確な“犯人”はいなかった。だが、タイミングがズレることで人は容易に疑念を抱く。

そのズレを生み出すのは、制度のラグであり、書類の重さであり、時に善意の先回りだったりもする。

信夫氏はただ、「間に合うように」送っただけだった。

一通の書類が奪った未来

だが、もしそれがもう1日遅れていれば、相続はまったく違う形になっていたかもしれない。

書類一通で未来が変わる。それが登記の世界だ。善意であれ悪意であれ、紙は強い。

そして人は、それに気づかないまま死んでいく。

終わらない紙の世界

書類の重さを噛みしめて

処理が終わったあと、机の上に残ったのは書類の控えと、古い万年筆だった。信夫氏が愛用していたものだという。

「それ、記念にどうぞって兄の方が言ってました」とサトウさん。

俺はそのペンをそっと引き出しにしまった。

今日も机には封筒の山

夕方、また新しい封筒が届く。「今度は誰の死後の依頼だろうな」と半分冗談で呟く。

それでも俺たちは処理する。名前のない依頼、声のない意思、それを読むのが司法書士の役目なのだから。

そしてまた、明日も紙と戦う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓