ちょっと聞きたいんだけどが心をざわつかせる瞬間
「ちょっと聞きたいんだけど」という一言を、お客さんから投げかけられるたびに、なぜか胸の奥がざわつく。何か嫌な予感がするのだ。多くの場合、それは追加の依頼だったり、思わぬトラブルの報告だったりする。別に悪意があるわけではないと頭ではわかっていても、その言葉が持つ“これから面倒なことを言いますよ感”が染みついているのかもしれない。慌ただしく日々をこなす中で、この一言がいつの間にか怖くなってしまった自分に気づく。
その言葉に隠された予感のようなもの
「ちょっと聞きたいんだけど」と言われた瞬間、頭の中で時間が止まる。そして次の言葉を全力で予測する自分がいる。たとえば、「登記の費用って、やっぱり安くなりませんか?」とか、「印鑑証明って今からでも間に合います?」とか。こうした質問が続くと、予定していた段取りが音を立てて崩れていくような感覚に襲われる。昔、野球部でピッチャーをしていた時、相手バッターに嫌な予感を感じた直後に打たれた記憶に似ている。
事務所に漂う空気が一変する
事務所内でこの言葉が出ると、まるで空気が重くなる。事務員の彼女もすでに察しているのか、書類の手を止めて静かに耳を傾ける。僕が「どうぞ」と答えるその一瞬に、微妙な沈黙が走る。日常の流れが一時的に止まり、これから始まる面倒な話に備える空気が生まれる。この空気の変化が嫌いだし、何より自分の反応がぎこちなくなるのがわかって恥ずかしい。
なぜかいつもトラブルの入り口
不思議なもので、「ちょっと聞きたいんだけど」の先にあるのは、ほぼ100%スムーズな話ではない。追加資料の提出漏れや、聞いてなかった事実の発覚など、予想外のことが続く。ある時は、法務局からの電話に焦っている時にこの言葉を投げられ、「いまじゃなくていい?」と強く言ってしまったこともあった。後で後悔したが、気持ちに余裕がなかった自分が情けなかった。
聞かれる側のメンタルコスト
聞かれるという行為そのものに対して拒否感はない。むしろ、信頼されている証拠だと考えたい。ただし、それが連続すると、こちらの気力がすり減っていくのも事実だ。何かを聞かれるたびに「また何かあるのか」と心の奥で身構えてしまう。この感覚は、毎日繰り返すうちにどんどん強くなっていった。だから最近は、電話が鳴る音ですら軽く身構えるようになってしまった。
想像より重い内容が多い
「ちょっと」と言われても、実際は「かなり」重い内容であることが多い。たとえば、家族間の相続トラブルや、離婚を伴う名義変更など、こちらも簡単には答えられないようなケースだ。法律と現実の狭間で、僕らは曖昧なラインを歩いている。そのたびに、「ちょっと」なんて軽く言わないでよ…と思うのだが、それを言えるわけもなく、今日も笑顔で応対する。
経験を積んでも慣れないもの
司法書士として15年以上やってきたが、この「ちょっと聞きたいんだけど」に慣れる日はこない。むしろ、経験を積んだ分だけ、裏にあるリスクや手間が見えるようになってしまっている。昔は「なんでも聞いてください」と言えていたが、今は少し躊躇してしまう自分がいる。人に頼られるのは嫌じゃないのに、複雑な気持ちになるのはなんとも言えない。
言葉の裏にあるものを読みすぎる日々
司法書士という仕事は、書類と法律だけを相手にしているようで、実は人の感情と向き合う時間の方が長い。特に「ちょっと聞きたいんだけど」の裏には、依頼人の不安や焦りが見え隠れしていて、それをどう受け止めるかに神経を使う。気づけば、ただ聞かれるだけで疲れてしまうようになっていた。
聞き方ひとつで構える癖がついた
言い方ひとつで、こちらの反応も変わってしまう。「忙しいところすみませんが…」と前置きされると、少し心にゆとりが生まれる。でも、いきなり「ちょっといいですか?」と話しかけられると、無意識に構えてしまう。元野球部の反射神経が、まさか司法書士になっても働いてしまうとは思わなかった。
野球部時代の直感がよみがえる
高校時代、ピンチの場面では何か嫌な予感がするものだった。バッターの目つきやベンチの空気から、次に何が来るか察する。今はそれが、お客さんの表情や声のトーンにすり替わっただけだ。「あ、この感じは…」という予感は、たいてい当たる。だが、それにどう対処するかは、今でも模索中だ。
一瞬で構えてしまう悲しき習性
この仕事を続けてきた中で、無意識に身についた“構え”の習性は、日常生活にまで染み出してきている。スーパーで店員さんに「すみません、ちょっと…」と話しかけられるだけでビクッとしてしまうのだ。我ながら情けないが、それほど日々の対応で身も心も張りつめているということなのだと思う。
それでも聞かれる側であり続ける意味
面倒だ、怖い、疲れる。そう思いながらも、結局のところ僕は、誰かに「ちょっと聞きたいんだけど」と言われることを受け止めてしまう。断るほど冷たくなれないし、無視するほど図太くもない。そんな自分が面倒くさいと感じることもあるが、それでもこの役割に、少しは意味があるのかもしれないと思い始めている。
頼られることが嫌いではないという矛盾
「ちょっと聞きたい」と言われて内心げんなりしつつも、頼られること自体は嫌いじゃない。孤独な仕事だからこそ、人との接点があるとホッとすることもある。とくに、相談が終わった後に「ありがとう、助かったよ」と言われると、その日の疲れが少しだけ和らぐ。だから今日も、聞かれる側でいようと思える。
孤独な仕事にささやかな交流の価値
ひとり事務所にこもり、黙々と書類と格闘していると、人との関わりが恋しくなる。そんな時に「ちょっと聞きたいんだけど」と声をかけられると、正直ありがたい気持ちもある。怖いけれど、嬉しい。面倒だけど、ありがたい。この相反する感情が共存しているのが、司法書士という仕事のややこしさなのかもしれない。
たまにある嬉しい言葉で救われる
すべての「ちょっと聞きたいんだけど」が悪いわけではない。中には「前に教えてもらった件でスムーズにいきました!」なんて嬉しい報告もある。そんな時は、心の中でガッツポーズをしてしまう。報われた気がする。だから今日も、怖がりながらも耳を傾ける準備をしている。
聞かれる重みも自分の居場所の証かもしれない
誰かに頼られること。聞かれること。そこに込められた「信頼」や「安心感」に気づいた時、少しだけ自分の仕事に誇りを持てた気がした。怖くても、逃げたくても、それでもやっぱり「ちょっと聞きたいんだけど」と言われる存在でいたい。そんな風に思える日が、少しずつ増えてきている。
不器用な優しさが少しは役に立つ
僕は器用な人間ではない。説明も得意じゃないし、要領もよくない。でも、不器用なりに話を聞いて、考えて、言葉を返してきた。その積み重ねが、少しは誰かの役に立っているなら、それでいい。完璧じゃなくても、向き合う姿勢だけは忘れずにいたい。
今日もちょっと聞きたいんだけどと言われた
そして今日もまた、「ちょっと聞きたいんだけど」と声をかけられた。いつものように、心の中で一度だけため息をついてから、「はい、どうぞ」と笑顔で応えた。きっと明日も、同じことを繰り返す。それでも、こうして続けていけるのは、この仕事が嫌いじゃないからなのかもしれない。