封じられた遺言と朝の失踪

封じられた遺言と朝の失踪

司法書士の朝は静かに始まる

午前六時。まだ蝉も鳴かない時間帯に、コーヒーの香りが事務所を満たす。誰もいない書棚を眺めながら、ぼんやりと湯気に目をやるのが最近のルーティンだ。

今日も何事もなく終わればいい。そう思っていた。だが、そんな祈りが通じた試しなど、サザエさんの最終回並みに珍しい。

開封された封書と残された印影

出勤してきたサトウさんが、玄関の下に落ちていた茶封筒を拾った。表には赤字で「至急開封」と書かれている。中には保全措置申立書の写しと、見慣れた実印の影。

誰の印かは見なくてもわかる。先日、不動産の名義変更で事務所に来たあの男のものだ。

登記相談と保全措置の狭間で

保全措置というのは、差し迫った危険から財産を守るためのものだ。だが、それを申立てたまま依頼人が行方不明とは話が違う。

残された書類を前に、僕は困惑しつつも、依頼者の名前を見て嫌な予感がした。なんというか、こういう展開、金田一少年の冒頭っぽくないか。

依頼人は涙をこらえて

その依頼人、川島という男は、妻の死後に義母との不仲で財産を巡る問題を抱えていた。相談時も、彼の手は常に震えていた。

だがその後、急に保全申立てを出し、それっきり音沙汰がなかったのだ。

仮処分申立書と遺産の分割協議

内容を読み込むと、仮処分の対象は川島家の旧宅と、土地の名義だった。それも妻名義のままで、義母と共有登記されている。

名義変更前に保全をかけるとは、よほど追い詰められていたのだろう。

登記簿に刻まれた最後の意志

念のために登記簿を確認した。そこには申立日と同日に「遺言書による所有権移転」の記載があった。ただし申請人名は空欄だ。

誰かが途中で申請を止めたのか、それとも意図的に伏せられているのか。

事務所に響く電話のベル

午前七時、早すぎる時間帯に事務所の電話が鳴った。受話器を取ると、微かに水音が混じる声で「カワシマさんを、、、探して」と女性が言った。

電話はそれだけで切れた。番号は非通知。嫌な予感が胃の奥でうずいた。

朝七時の来訪者

その直後、インターホンが鳴った。玄関に立っていたのは、川島の義母だった。「あの人、もう戻ってこないと思うの」彼女の手には川島の携帯があった。

彼女は言った。「昨日、遺言状を見せられたの。娘のものだと。だけど、、、署名がなかったの」

鍵と携帯と濡れた靴

携帯とともに手渡されたのは、川島の車の鍵と濡れた革靴だった。義母の話によれば、それらは今朝、庭先の椅子の上に置かれていたという。

やれやれ、、、不穏な気配しかしないじゃないか。

サトウさんの冷静な推理

「登記を途中まで申請したってことは、まだ効力は発生してないわね」サトウさんが冷静に資料を捌きながら言った。

「そしてこの申立書、日付が未来になってる。つまり偽造の可能性もある」

所在確認と筆跡照合

筆跡を見比べてみると、遺言書のものと申立書の署名が微妙に違っていた。もしかして、川島は誰かに文書を偽造されたのか。

あるいは、逆に自作自演か。それを知るには本人を見つけ出すしかない。

消えた依頼人の足取り

近隣の防犯カメラを確認すると、川島の車が夜中に人気のない山間部へ向かった形跡があった。目的地は、すでに空き家となった実家だった。

あまりにありがちだ。だが現実はサスペンスドラマほど華やかではない。

やれやれ、、、俺の出番か

サトウさんの情報整理をもとに、僕は山へ向かった。途中、崖の手前に停まった車が見えた。近くの廃屋の中に、川島はいた。

放心した彼の手には、燃え残った封筒と、署名済みの遺言書が握られていた。

古い登記情報と秘密の共有名義

遺言書にはこう書かれていた。「この家は母と川島に贈る」。だが、そこには“母”というのが妻の母なのか、養母なのかの記載が曖昧だった。

つまり、誰のものにもなり得ず、争いの火種になる内容だったのだ。

亡き母が残したもう一つの意思

さらに封筒の奥には、補遺として「この遺言に反対する者には家を相続させない」と書かれたメモがあった。日付と印も揃っている。

彼はそれを燃やそうとした。だができなかった。それが彼なりの良心だった。

雨の中の廃屋で見つけたもの

僕は静かに彼の肩を叩いた。「全部、引き受けるよ」司法書士としての義務、いやそれ以上に、人としてやるべきことがあると思った。

それがたとえ、誰にも褒められなくてもだ。

封じられた遺言書の真相

結局、彼の申し出で遺言書は家裁に提出され、共有名義の調整と協議が進められることになった。争いを防ぐため、あえて不完全なまま処理された。

川島は言った。「これで妻に、少しは顔向けできる気がします」

真実の保全措置とは何か

人の心を守るための手続き。それが本来の保全措置かもしれない。川島が行ったことは、法的には中途半端だったが、人として誠実だった。

帰り道、サトウさんが言った。「それにしても、司法書士ってめんどくさいですね」

朝が終わる時

事務所に戻ると、蝉の声がようやく鳴き始めた。コーヒーの香りは冷めていたが、今日は何かが少しだけ報われたような気がした。

机の上に置かれた封筒を見て、僕はふっと笑った。次の依頼がまた届いていた。

依頼人の選択と別れの決意

川島は引っ越すという。新たな土地で静かに暮らすそうだ。それが彼なりのけじめなのだろう。

サトウさんが呟いた。「まあ、今回はシンドウさん、ちゃんと役に立ちましたね」

司法書士としてのけじめ

「やれやれ、、、もう少し優しく言ってくれてもいいだろ」そう言いながら、次の申請書類を取り出す。司法書士という職業は、実に地味で、実に重い。

でも、今日くらいは誇ってもいいかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓