硬派すぎると言われて会話が止まる日々

硬派すぎると言われて会話が止まる日々

誰かと話すときに流れが止まる瞬間

「そんなに硬派だと、話しにくいよね」——この一言で、会話の流れが止まったことが何度もある。悪気のある言葉ではないのは分かっている。それでも、妙に胸に刺さる。たしかに、雑談が苦手だ。自分でもわかっているし、盛り上がるような話題を提供するのも得意じゃない。相手の話を聞くのは好きだけど、返し方が分からなくて間が空いてしまう。結果的に、「この人、話しにくいな」と思われてしまう。別に怖い顔をしているつもりはないし、怒っているわけでもないのだが、第一印象もあまり良くはないのだろう。

硬派って言葉の正体

「硬派」って、なんとなく昔は褒め言葉だった気がする。男らしい、まじめ、一本気、そんなニュアンスが込められていた。しかし、今の時代ではどうだろうか?「柔軟性がない」「付き合いにくい」「話が広がらない」そんな否定的な意味合いで使われてしまう。自分では誠実に生きてきたつもりだけど、それがかえって距離を生むのだとしたら皮肉だ。司法書士という仕事柄、真面目な態度が必要だし、軽口を叩くような場面もあまりない。だからこそ、余計に日常の会話で浮いてしまうのかもしれない。

昔は褒め言葉だった気がする

学生時代、特に野球部の頃は「硬派」であることが美徳だった。言い訳をせず、黙って練習に励む。必要以上に喋らず、背中で語る。そういう姿勢が「男らしい」とされていた。だからこそ、今でもその価値観が抜けきらない。社会人になっても、司法書士として独立しても、どこかで「余計なことは喋るな」と自分にブレーキをかけている。けれど、その美学は今の世の中では通じにくい。むしろ、「とっつきにくい人」として距離を置かれてしまう。これが時代の変化なのか、ただ自分がずれているのか、悩むこともある。

野球部時代の上下関係と無口の美学

野球部では「先輩に逆らうな、無駄口叩くな」が鉄則だった。試合に勝つために、無駄な会話は排除され、練習中の私語は厳禁。特に1年生の頃は、「声を出せ」と言われても、意味のある声以外は許されなかった。そんな環境で育ったせいか、今でも無意識に言葉を飲み込んでしまう癖がある。お客様との打ち合わせでも、少し間が空くだけで不安になる。相手に気を遣っているつもりなのに、「無愛想」と思われてしまうことも多い。これはもう性格というより、育ってきた文化そのものなのかもしれない。

雑談ができない司法書士

司法書士という仕事は、感情を込めて話すことよりも、正確さと信頼感が求められる。だからこそ、感情的な話題や、日常のたわいもない雑談が苦手になっていった気がする。仕事の会話はできても、休憩時間やちょっとした隙間での会話になると、突然無口になる。雑談の引き出しが少なすぎるのだ。何を話せばいいかわからないし、無理に話して空回りしたこともある。それ以来、余計に喋らなくなった。「話さない方が安全」という意識が、いつの間にか根付いてしまっていた。

話題が「仕事」か「天気」しかない

事務員さんとの会話も、「今日の天気、寒いですね」とか「この書類、急ぎでしたよね」といった業務的な内容に終始してしまう。本当はもっと雑談もしたいのに、どう話題を振ればいいかわからない。「この人、私に興味ないのかな」と思われているかもしれない。でも、興味がないわけじゃない。ただ、どう表現すればいいかわからないだけなのだ。たまに勇気を出して趣味の話をしても、「へぇ、そうなんですね」で終わると、もう二度と話題に出せなくなる。こうしてまた、沈黙が居座る。

事務員との距離感も迷子になる

事務員さんとの関係は難しい。上下関係があるようで、でもフランクに話さなければ続かない。何を言えば「距離を詰めすぎ」と思われるか、逆に「他人行儀」と思われるか、その境界線が分からない。自分では気を遣っているつもりでも、相手には「無関心」と受け取られているのかもしれない。以前、一度だけ「先生って、ほんと話しかけにくいですよね」と言われたことがある。それが冗談だったのか本気だったのか、いまだに分からないままだ。でも、その言葉だけはずっと心に残っている。

会話が続かないことへの自己嫌悪

会話が続かないと、自分に腹が立ってくる。なんでこんなに不器用なんだろう、と。うまく言葉を繋げられずに黙ってしまったとき、「これじゃだめだ」と分かっているのに、何もできない。あとから「こう言えばよかった」と反省しても、もう遅い。その繰り返しで、ますます自信をなくしていく。話すことが怖くなってしまうのだ。誤解されるのも、笑われるのも、無視されるのも怖い。だから口を閉ざす。でも、それがさらに誤解を生む——この悪循環から抜け出せない自分が、情けなくて仕方ない。

「硬派すぎ」への反応と孤独

「硬派すぎてつまらない」と言われたとき、その人が軽く言った一言でも、こちらはけっこうダメージを受ける。冗談でもいいから笑いにできればいいのに、表情も固まってしまう。そうやって人との距離ができていく。自分でもそれが分かっているのに、変えられない。このままじゃまずい、と頭では分かっていても、心がついてこない。結果的に、気がつけばまた孤独のなかにいる。誰にも頼れないまま、自分の仕事だけが黙々と積み上がっていく。そんな日々が、少しずつ心をすり減らしていく。

女性と目が合うと逃げられる気がする

恋愛なんてもう、何年もしていない。女性と目が合っても、向こうがサッと目をそらすような気がしてしまう。実際はそんなことないのかもしれないけど、自信のなさがそう思わせるのだろう。優しさを伝える機会もないまま、「無口な人」とだけ思われて終わる。見た目も話し方も、もう少し柔らかければ違ったかもしれないけれど、今さら変えられるものでもない。どこかで「自分には縁がない世界」と線を引いてしまっている。それがますます孤独を深めていくのかもしれない。

優しさと無愛想のジレンマ

本当は、人に優しくしたいし、頼られたらうれしい。でも、それをうまく表現できない。無口でぶっきらぼうな態度しか取れなくて、「冷たい」と思われてしまう。言葉が足りないことが、自分の優しさをかえって隠してしまっているのかもしれない。昔から「誤解されやすい」と言われてきた。でも、それを変える努力をしてこなかった自分にも責任がある。どうしたら、自分の中の優しさをちゃんと伝えられるのか。いつもその方法を探しているけれど、答えはまだ見つからない。

言葉より態度で示してしまう不器用さ

司法書士という仕事柄、「説明する」「伝える」という行為には慣れている。でも、それは業務上の話であって、感情や人間関係に関しては別物だ。言葉より態度で示そうとする自分がいる。でも、それが相手に伝わるとは限らない。むしろ、何を考えているか分からないと思われてしまう。自分では一生懸命やっているつもりでも、それが報われることは少ない。結局のところ、もっと素直にならなきゃいけないのかもしれない。だけど、それがなかなかできないから、困っている。

愚痴なら出るのに、雑談は出ない

仕事の愚痴なら、いくらでも出てくる。「登記の進みが悪い」「電話対応が多すぎる」「役所が遅い」など、口を開けば出てくる。でも、楽しい話や世間話となると、なぜか詰まってしまう。まるで、感情の引き出しが壊れてしまったかのようだ。人と笑い合うには、余裕と柔らかさが必要なのだろう。今の自分には、その余裕がないのかもしれない。だから、出てくるのはついネガティブな言葉ばかり。それを止めようとすれば、また黙り込むしかない。なかなか難しいバランスである。

硬派は仮面か、それとも本音か

自分が「硬派」でいるのは、素なのか、それとも鎧をかぶっているだけなのか。たまに考えることがある。本当はもっと話したいし、笑いたい。でも、過去の失敗や恥ずかしい記憶が邪魔をして、つい黙ってしまう。気づけば、硬派という仮面に逃げているのかもしれない。だけど、もしその仮面を外したら、何が残るのか——それが怖くて、今もこのままでいる。もしかしたら、この仮面の下には、ただの不器用なおじさんがいるだけなのかもしれない。それでも、少しずつでもいいから、素顔を出していけたらと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。