あの一言で空気が変わった気がした
ある日、登記の相談でやってきた依頼人との打ち合わせの最中、「あの先生はもっと丁寧に説明してくれたんですけど」とポロっと言われた瞬間、胸にズシンと重い石が落ちたような感覚が走った。誰と比べているのかは明言されなかったけれど、その空気感と口調に、明確な“比較対象”があることは察せられた。正直、その場で「そうですか」と返すのが精一杯だった。忙しさにかまけて、つい簡潔に話を済ませようとしていた自分への後悔と、依頼人のその一言に対するやるせなさが入り混じって、なんとも言えない気まずさが残った。
比較される瞬間に胸がザワつく
司法書士という仕事は、他士業と比べて地味だ。弁護士のような劇的な逆転劇もなければ、税理士のように経営の深部に関与することも少ない。だけど、登記という仕事は、確実性と誠実さが何より求められる。だからこそ、説明も一つ一つ丁寧に、誤解のないように進めているつもりだった。でも「他の先生はもっと〜」と言われた瞬間、そんな積み重ねがすべて否定されたような気持ちになる。まるで、野球部時代に監督から「お前より〇〇の方が頼りになるな」と言われたあの頃のような、あのザワザワした感覚が蘇る。
それでも笑顔で対応する理由
「そうなんですね、私も気をつけます」と、無理やり笑顔を作ってその場をやり過ごした。でも、内心はぐちゃぐちゃだ。怒りというよりも、情けなさや自信喪失が近い感情。だけど、依頼人にとってみれば“その場で安心できる対応”がすべてなんだと思う。こちらの事情や心の準備なんて関係ない。だからこそ、どれだけ心が折れそうでも笑顔だけは忘れないようにしている。それが、司法書士というよりも“人としての”礼儀だと思っている。
怒れない自分にも腹が立つ
家に帰ってから、「あの時ちゃんと言い返してもよかったんじゃないか」と何度も反芻した。「うちはこういうやり方でやってるんです」と、少しくらい主張してもよかったんじゃないかって。でも、結局それもできなかった。相手を気遣ってしまう自分の性格が、こういう場面で裏目に出る。優しさなのか弱さなのか、自分でもわからない。でも正直、ちょっとくらい怒れるような司法書士に、なってみたかったりもする。
依頼人は悪くないとわかっていても
依頼人の言葉に悪気がなかったことはわかっている。きっと不安な気持ちがあって、それを解消してほしくて口をついた一言だったんだろう。それでも、こちらも人間だ。どれだけ理屈では理解できていても、感情はうまく処理できないまま残る。そして、ふとした瞬間に思い出して、また心のどこかを痛めることになる。誰も悪くないのに、誰も傷つけたくないのに、こういうすれ違いが一番やるせない。
評価はされないけど責任は取らされる
司法書士の仕事は基本的に“成功して当たり前”の世界だ。ちゃんと登記が完了すること、期日までに間に合わせること、それらは“感謝される対象”ではなく“当然やるべきこと”とされる。だからこそ、何かあったときだけが表に出る。評価はされず、でも責任だけは確実にのしかかる。ミスをすれば信頼を失い、完璧にこなしても空気のように扱われる。そのギャップに、心がすり減るのは珍しくない。
士業のプライドってどこに置いてきたっけ
ふと、「自分はなんのためにこの仕事をしているんだろう」と考えることがある。司法書士として、地域に貢献したいとか、人の不安を取り除きたいとか、最初はそれなりに志を持っていた。でも、日々の業務に追われ、事務所の経営にも頭を悩ませるうちに、そんな理想はどこかへ行ってしまった気がする。今では、「とにかく怒られないように」「トラブルにならないように」と、自分を守ることで精一杯だ。
他の士業と比べて司法書士って何者だ
そもそも、一般の人からすると司法書士ってなんの職業かよくわからないことも多い。よくあるのが、「弁護士の下請けみたいな仕事ですか?」という質問。悪意はなくても、やっぱりちょっと切なくなる。こっちはこっちで、法務の現場を支える大事な役割を担っているつもりなんだけど、それが伝わらないもどかしさ。比較されることが多いのも、士業全体の構造的な問題なのかもしれない。
説明もできずに名前だけが独り歩き
自分の肩書きが「司法書士です」と名乗るたびに、相手が一瞬「それって何をする人?」と頭の中で思っている気がする。説明しても、あまりピンと来ない顔をされると、こちらも言葉を選びながら話すようになる。でも、それって本来、胸を張って言えるはずの職業なんじゃないか。誇りを持つべきはずの肩書きが、説明の難しさゆえにどこか頼りなく感じてしまう現実が、なんとも寂しい。
丁寧なだけじゃ生き残れない現実
どれだけ誠実に仕事をしていても、価格やスピード、さらには「感じの良さ」などで他士業と比べられてしまうのが現代だ。昔のように紹介で仕事が回る時代ではないし、ネット上の口コミひとつで評価が決まることもある。だから、ただ“丁寧な仕事”をしているだけでは足りない。選ばれる存在になるには、何かもう一つ武器が必要な時代になってきた。でも、それが何かわからないまま、今日もただ黙々と書類と向き合っている。
正直疲れてます
気を張り続ける毎日に、少しずつ疲労が蓄積している。案件が重なれば、休日も返上。電話もメールも止まらない。心を休める暇がないというのは、こういう状態なんだと思う。ふと気づくと、カレンダーには休みの予定が一つも入っていない。「休んだら次が怖い」と思ってしまう自分がいる。でも、そんなふうに仕事に追われる毎日が続けば、心がいつか壊れてしまうんじゃないかと、不安にすらなる。
たった一人の事務員のありがたさ
そんな中で支えてくれるのが、たった一人の事務員さんだ。彼女がいてくれなかったら、たぶん今頃この事務所は回っていなかったと思う。どれだけ忙しくても、書類のチェックやお茶出し、電話対応まで淡々とこなしてくれる。その姿を見ると、「ああ、ひとりじゃないんだ」と実感できる。時には雑談で笑わせてくれることもあって、そういう何気ないやりとりが救いになっている。
それでも回らない毎日
それでも業務量は増えるばかり。補助者が一人では限界があるし、かといって人を増やす余裕もない。結局、事務所のことはすべて自分で背負わなければならない。経理も営業も広報も、ぜんぶ兼務。頭では効率化しなきゃとわかっていても、体がついていかない。まるで、試合中に一人で投げて打って守っているような、そんな感覚に近い。
休日も心が休まらないという話
ようやく休みが取れたと思っても、頭の中では「あの件どうなったかな」「来週の段取りは大丈夫か」と考えてしまう。完全にスイッチを切ることができないのは、経営者としての性なのか、それともただの心配性なのか。いずれにせよ、身体は休んでいても心はずっと働いている感じ。だから、次第に「休みがしんどい」とさえ思うようになってしまった。
でもやっぱりやめられない
こんなに愚痴ばかりこぼしていても、なんだかんだ言ってこの仕事が嫌いじゃないのは不思議なものだ。たまに、「先生、助かりました」「頼んでよかったです」と言ってもらえると、心の奥で小さな火が灯る。誰かの役に立てたという実感、それがこの仕事を続ける理由になっているんだと思う。
「先生ありがとう」それだけで救われる
派手なリアクションじゃなくてもいい。ただ一言、「ありがとう」と言われるだけで、これまでの苦労が一瞬報われた気がする。あの一言のために、また頑張ろうと思える。士業って、結局“人の気持ち”に支えられている仕事なんだなと感じる瞬間でもある。
気まずさの先にも小さな誇りがある
比較されて傷つくこともある。でも、それは誰かの中に「自分と他者を比べる基準」があるからこそ。つまり、期待されている証でもある。そう思えば、少しだけ気が楽になる。気まずさを乗り越えた先に、自分なりのやり方で信頼を築ける日が来るかもしれない。そんな希望を胸に、今日もまた書類とにらめっこしている。