完璧な手続きよりも難しい人間関係
登記は、書類が揃っていれば基本的に流れが決まっていて、ある意味“安心”です。法律や制度に則って粛々と進める仕事には、感情の揺れや予想外の展開が入り込む余地が少ない。一方で、相手が“人”となると話はまったく別。どれだけ正確に仕事をしていても、相手の気持ちに寄り添えなければ満足されないことがある。こちらが善意で動いたことも、「余計なことをされた」と受け取られてしまえば一瞬で関係が崩れる。人の気持ちを読むというのは、登記の条文を読むより何倍も疲れるのです。
書類は揃えば終わるけれど
登記であれば、必要な書類を正しく揃えて提出すれば終わります。手順通りに進めれば、たとえどんなに複雑な案件であっても「完了」の達成感がある。でも人とのやり取りにはその「完了」がありません。たとえば相続登記の依頼で、喪失感に沈んでいる依頼者の前では、手続きの説明一つにも配慮が必要です。「これで登記は完了しました」と言っても、「じゃあこれで終わりですね」と気持ちが整理されるわけではない。完了の押印はできても、気持ちの区切りに印鑑は押せないのです。
法務局は感情で動かない安心感
法務局に提出した書類は、内容が正しければ受理され、不備があれば戻ってくる。それだけの話です。機嫌のいい日と悪い日で反応が変わるわけでもなく、提出者の態度に左右されることもない。その事務的な対応が、時には救いにすら感じられる瞬間があります。「人」とのやり取りが続いた後に法務局に行くと、冷たさではなく「平等さ」にほっとすることすらあるのです。感情で揺れない世界に、どこか憧れてしまうことがあります。
「ありがとう」と言われない日常
司法書士の仕事は、依頼者の生活の裏側を支える仕事です。登記完了の報告をしても、「そうですか」と一言で終わることも多い。こちらは徹夜で書類を仕上げていたとしても、それが伝わるわけではない。もちろん感謝を求めて仕事をしているわけではないけれど、時折「何のためにここまでやっているのだろう」と虚しくなる瞬間もあります。特に、相手の態度が雑だったり冷たかったりすると、その一言の重みが思っている以上に心に響くものです。
言葉の裏にある本音を読み違える
「お願いします」と言われたから快く引き受けた案件が、実は「今すぐやってくれ」という意味だったり。「急ぎません」と言われた案件を後回しにしていたら、「なんでまだなの」と怒られたり。人の言葉には、その場の空気や感情が乗っかっていて、文字通りに受け取ると痛い目を見ることがあります。読み違えたことで関係がこじれてしまい、信頼が離れていく。そのたびに「ああ、登記のほうがよっぽど素直だ」と思ってしまいます。
「急いでます」には二種類ある
「急いでます」と言われたとき、その言葉が文字通り「時間的に急ぎ」なのか、それとも「精神的に気が急いている」のかを見極めるのは至難の業です。実際に急ぐ案件なら、役所の締め切りや取引の期限が明確にある。でも「気持ちが落ち着かないから早く終わらせたい」というケースでは、どれだけ手続きを早く進めても、安心するとは限らない。こうした依頼者の“気持ちの急ぎ”に対しては、ただ作業を早めれば済む話ではなく、寄り添い方が問われる場面になります。
気を遣って怒られる理不尽
「こう言ったら嫌がるかな」「この言い回しはきつすぎるかも」と気を遣って言葉を選んでいるのに、逆に「回りくどい」と言われたり、「何が言いたいのかわからない」と怒られたりすることもあります。こちらは相手の気持ちを害さないように、最大限の注意を払っているつもりでも、それが裏目に出てしまう。こういう時、自分のコミュニケーション能力の限界を痛感します。登記のように、「これが正解」という基準があればどんなに楽かと思わずにはいられません。
依頼人の気持ちとどう向き合うか
毎日誰かしらと接する中で、依頼人の心にどう寄り添うかは、いつまで経っても慣れることがありません。登記が正確でも、対応に“冷たい”と思われれば不満を生む。かといって、必要以上に踏み込むと「失礼」と言われる。まさに綱渡りのような距離感の中で、こちらも傷ついたり悩んだりしながら、今日もまた誰かの「気持ち」と向き合うことになります。
顔色を読むより自分のメンタルが心配
依頼人の顔色をうかがいながらの対応が続くと、正直こちらの心が先に疲れてしまいます。「あの言い方で良かったかな」「あの一言、気にしてないかな」と夜まで考え込むこともある。元々そこまで器用な性格でもないので、相手に合わせすぎると自分がすり減っていくのがわかります。結局、自分の心が折れないようにするためにも、“適度に無関心”でいる術を身につけなければ、この仕事は続かないのかもしれません。
親切のつもりが仇になるとき
「この手続きも一緒にやっておきますね」と善意で伝えたことが、「そんなこと頼んでない」と不信感を生むことがあります。たとえこちらに悪意がなかったとしても、相手がそう受け取らなければ、それは“ありがた迷惑”でしかない。こういうことが何度か重なると、「もう余計なことはしないほうがいいのかもしれない」と思ってしまいます。けれど、本当に必要なことまで“言われなきゃやらない”対応になってしまうと、結局誰も得をしない。そのジレンマに、今日もため息が出ます。
「先生」と呼ばれる違和感
司法書士という仕事柄、「先生」と呼ばれることが多いのですが、どうにも慣れません。自分なんて、ただの地元にいるおじさんですし、決して威厳のある人物でもない。それなのに「先生、先生」と呼ばれると、どこか自分が自分でないような気持ちになります。名前で呼ばれる方がよほど気が楽ですし、「そんな立派な人間じゃないですよ」と言いたくなってしまうのです。
敬語に隠れた冷たさに気づく瞬間
言葉は丁寧でも、そこに心がこもっていないことに気づいたとき、ものすごく寂しさを感じます。「お世話になっております」とは言っていても、その声のトーンや表情から、「あ、この人は早く終わらせたいだけなんだな」と伝わってくる。形式だけのやり取りに慣れてしまうと、自分までその波に飲み込まれてしまいそうになります。人の気持ちを読み過ぎると疲れるし、読まなすぎると鈍感と言われる。その中間を探し続けるのが、この仕事の一番難しいところかもしれません。
頼られるけど、信頼されている気はしない
「急ぎなんです」「早くやってください」と言われることは多くても、「あなたに任せます」と言われることは少ない。依頼されているのに、まるで“業者”扱いされるような瞬間に、ふと虚しくなることがあります。確かに、仕事の一部を請け負っているだけかもしれません。でも、せめて少しでも信頼を寄せてくれていると感じられたら、こちらのやる気も違うのに。そんなふうに思っても、口には出せません。「プロなんだから当然」と思われているんでしょうね。
感情の消耗とどう付き合うか
気を遣い、人に気を使われ、毎日感情をすり減らしながら働いている感覚があります。登記が難しいのではなく、人と関わることが難しい。そのことを誰かと共有できるだけで、少し楽になるのかもしれません。だからこそ、この文章もまた、誰かのために書いています。
書類作成より疲れる会話
実際のところ、複雑な書類を何時間もかけて作るよりも、依頼者との30分のやり取りの方がぐったりすることがあります。「この人、何を本当に求めているんだろう」と探りながらの応対は、まるで心理戦です。気を遣っても伝わらず、逆に誤解されたときには、もうぐったり。やっぱり登記の方が楽だな…と、心のどこかで思ってしまうのです。
何度も同じ説明を繰り返す虚しさ
一度説明しても「よくわからない」と言われ、もう一度噛み砕いて話しても「だから何?」と言われる。何度説明しても納得されないときの虚しさは、なかなか言葉にできません。こちらも何年もやってきているから、同じ説明を繰り返すのは慣れていますが、それでも心がすり減る瞬間はあります。「書類に書いてあるのになあ」と思いながらも、それを口にできないもどかしさ。それが、司法書士の現実です。
時には「無になって」対応する
感情を込めすぎると消耗するし、込めなさすぎると事務的すぎて相手に不信感を抱かれる。だから、ある種“無”の状態で対応するスキルが必要になってきます。自分の感情をいったん脇に置き、ただ粛々と作業を進める。元野球部の精神論的なところも使いながら、「ここは気合いでやる場面だ」と自分に言い聞かせる。そんな日々です。
自分の感情にフタをする習慣
あまりにも色々な人の感情にさらされていると、自分の気持ちを感じる余裕がなくなっていきます。喜怒哀楽を表に出さず、「とにかく今はこなすことが先」と思いながら、日々を乗り切る。そうしているうちに、自分が何を感じていたのかすら思い出せなくなってしまうときもあります。ふとしたときに、「俺、なんでこの仕事やってたんだっけ?」と立ち止まる。そんな瞬間があるからこそ、人の気持ちの難しさを実感し続けるのかもしれません。
元野球部的「気合い」で乗り切れる日と無理な日
正直なところ、若い頃は「気合いでなんとかなる」と思っていました。野球部で鍛えた根性は、最初の数年は通用した。でも、年を重ねて、疲れも溜まってくると、気合いだけじゃ立て直せない日も増えてきます。それでも、踏ん張る力だけは残っている。誰に見せるわけでもないけれど、自分なりのスタンスで今日も人の気持ちと向き合っている。登記よりずっと複雑な「人の気持ち」を、なんとか受け止めながら。