ある依頼人の訪問
梅雨の終わりを感じさせる湿った朝、事務所のインターホンがけたたましく鳴った。カレンダーを眺めながらため息をついた瞬間だった。こんな日に限って、厄介な相談が舞い込むものである。
ドアを開けると、スーツ姿の中年男性が立っていた。目の下にクマを浮かべたその顔には、何かを必死に隠しているような緊張が滲んでいた。
「亡き父の遺言の件で相談があります」そう切り出された瞬間、胸の奥に微かなざわめきが走った。ありふれた案件にしては、妙に湿気を帯びた空気だった。
朝一番のインターホン
依頼人の名前は成田克己。亡き父の不動産について、登記簿と遺言の内容が食い違っているという。登記名義は父のままだが、遺言では弟に譲ると書かれていたという。
よくある遺産争いかと内心思いつつも、話を聞く限りでは成田自身は特段それを不満に思っていないようだった。むしろ「本当に弟のものなのか確かめたい」という姿勢だった。
だが、彼の言葉の節々には、何かを押し殺すような不自然な間があった。こういうときは、焦らずに静かに観察するに限る。昔、怪盗ものの漫画で読んだ台詞がふと浮かんだ。「真実は、声の裏にある」。
不自然な遺言の相談
提示された遺言書は公正証書。形式上は問題ない。だが、不思議なことに遺言には「長男には既に十分な援助を行ったため、これ以上の相続は不要とする」と明記されていた。
成田はそれを読んで、眉一つ動かさなかった。普通、何かしらの反応があるものだが、彼の態度はどこか諦めにも似た淡白さだった。
「この文言、父の口調じゃないんですよね」そう呟いた成田の声に、かすかな不安と懐かしさが混じっていた。遺言の真偽というより、その背景に何か別の事情がありそうだった。
古びた家と不自然な登記
現地調査に向かったのはその翌日。成田家が所有するという物件は、町はずれの古びた一軒家だった。まるで時間だけが取り残されたような、映画のセットのような佇まいだった。
だが、その家の登記簿を確認すると、妙な点が浮かび上がった。地番は一致しているのに、建物の構造と築年が一致しない。これは何かを隠しているパターンだ。
こういう時、サザエさんの家のように、時代も場所も曖昧に保たれているのが理想だが、現実はそうもいかない。紙の記録には、時として人の記憶よりも残酷な真実が記されている。
二重に存在する所有者
登記簿には確かに父親名義のままだったが、過去に一度、別人が所有者として登記されていた履歴が残っていた。その後すぐに抹消登記がされていたが、事情の詳細は不明だった。
こうした一時的な名義変更には、税金逃れや家族内のトラブルが絡むことが多い。だが、ここでの問題はその履歴が成田にも弟にも共有されていない点だった。
つまり、誰かが意図的に情報を伏せている。やれやれ、、、また面倒な匂いがしてきた。ここから先は、あの塩対応の名助手の出番だ。
名義人の不在と噂話
サトウさんが近隣住民に聞き込みをしてくれた結果、過去に一時期だけ「若い女性がその家に住んでいた」という証言が得られた。近所ではその女性を「遠縁の親戚」と噂していたらしい。
だが、その女性の記録はどこにも存在しない。住民票もなければ、賃貸契約もない。完全な幽霊のような存在だ。幽霊と言えば、昔『金田一少年の事件簿』でもそんなトリックがあったなと思い出す。
これは法務局の記録と人の記憶、両方を突き合わせていく必要がある。法的な真実と、人間の情との間には、いつも奇妙なズレがある。
サトウさんの調査開始
一言も愚痴を言わずに調査に出かけるサトウさん。その背中に、ただならぬ覚悟が漂っていた。俺なんかより、よほど探偵向きだと内心苦笑いする。
彼女が目をつけたのは、登記変更が行われた当時の司法書士だった。だがその人物は既に高齢で引退しており、今は息子が事務所を継いでいるとのことだった。
古い記録と、時代を跨ぐ証言。その両方を追うには、地道な確認作業が必要だった。だがサトウさんは、その忍耐力がこちらの数段上だ。
法務局で拾った違和感
調査の過程で、サトウさんが奇妙な資料を発見した。件の抹消登記の申請者欄に「成田克己」と似た筆跡の別人の名前があったというのだ。
つまり、誰かが偽名で成田の名を騙り、一時的に登記を移し、その後自ら抹消していた可能性がある。なぜそんなことを?
答えは一つ、「その間だけでも不動産を担保にしたかった」もしくは「名義を移すことで第三者からの差押えを防ぎたかった」そんなところだ。
不動産業者の証言
さらに聞き込みを進めると、当時その家に出入りしていた不動産業者の一人が見つかった。話を聞くと、「確かに女性と何度か打ち合わせをした記憶がある」と語った。
その女性は成田の父と親しい様子で、相続とは無関係の第三者だった。だが、登記の話になると急に口を濁すようになった。
これは単なる不動産の問題ではなく、個人的な関係が絡んでいるかもしれない。話は、遺言の裏に隠された秘密へとつながっていく。
隠された相続の経緯
再度、成田に面談を申し込むと、彼は意外な事実を語り始めた。「実は、父には昔、関係のあった女性がいたらしいんです。母が亡くなる前の話ですが……」。
そして、あの幽霊のような女性こそが、その人物であり、遺言とは別に財産を渡そうとしていたのではないかと語った。
それを阻止するために、父は一時的に彼女へ名義を移し、すぐに戻した。その証拠が例の登記の痕跡だったということか。
過去に交わされた念書
押入れから出てきた一通の封筒。そこには、「遺言には記さないが、私の気持ちはこうである」と書かれた父の直筆の念書が入っていた。
法的効力は薄いが、心情的な証拠としては強い。それを知った成田は、遺産を受け取る気が失せたように、ただうなだれていた。
人の死と、それにまつわる遺志は、常に法律の外側に広がる情の世界にある。そこに関わるのが司法書士という職業の、難しさであり面白さでもある。
兄弟間の確執と口約束
最終的に、成田は「遺言通りで構いません」とだけ言い残して去っていった。弟には何も語らず、ただ静かに身を引くように。
口約束や家族間の確執は、登記簿には記されない。それでもそれが事実であり、人生そのものである。
俺は念のため、登記簿に備考として「遺言の遵守に関する確認あり」とだけ記録を残しておいた。それがせめてもの橋渡しになることを願って。
シンドウの仮説と反論
帰り道、サトウさんがぼそりと言った。「…案外、人の正しさって登記じゃ測れないんですよね」。その言葉が胸に残った。
俺はといえば、法律という名のバットを握って、ただ球を打ち返しているだけだ。いつもどこかで空振りしながら。
でも、たまにはホームランもある。今回は、、、ギリギリ外野の頭を越えたかもしれない。そんな気がしていた。
真実は登記に書かれていない
登記簿は確かにすべてを記録するが、すべてを語るわけではない。真実は、時に紙よりも人の心に刻まれている。
今回の件でそれを改めて思い知った。やれやれ、、、こんな日は帰って野球中継でも見ながら、缶ビールでも開けるとしよう。
そう思った瞬間、サトウさんがボソッと呟いた。「野球もいいですけど、明日は朝イチで別件の決済ですよ」。現実はいつだって、甘くない。
事件の結末と依頼人の涙
あれからしばらくして、弟から礼の電話があった。「兄が何も言わず譲ってくれた。兄貴らしいや」とのことだった。
登記の世界では珍しい、感情で完結した事件だった。だが、それもまた一つの真実だと、今は思える。
司法書士という職業の中に、時に探偵のような顔をのぞかせる瞬間がある。そんなときにこそ、この仕事の奥深さを感じるのだ。
本当の相続人は誰だったのか
結局のところ、本当の意味での「相続人」とは、財産を継ぐ者ではなく、思いを受け継ぐ者なのかもしれない。
遺言も登記も、その一部を切り取ったにすぎない。それに気づけるかどうかが、俺たちの仕事の分かれ道なのだ。
やれやれ、、、今日もまた、一冊の登記簿が、新しいドラマを生み出してしまった。
正義と手続の間で
人は手続の正しさを求めながらも、心の正しさに救われる。その間で揺れる依頼人の背中を、ただ静かに見送るだけだ。
そして、次の依頼がやってくる。また誰かの疑念を照らすために。今度は、どんな真実が登記簿に隠れているのだろうか。
静かな事務所の片隅で、サトウさんがいつものように冷たい目でこちらを見ていた。「まだ仕事ありますけど?」……やれやれ、、、。