静けさが恋しくなるときがある
日々の業務に追われながら、ふとした瞬間に「誰かと沈黙を共有したい」と思うことがある。声をかけられるのも、何かを求められるのもつらいとき、自分の中の静けさを保つのに精一杯だ。そんなとき、ただ隣に座ってくれる人がいたら、どれほど救われるだろうか。声をかけてほしいわけじゃない。ただ、自分の世界を邪魔せず、気配だけでそばにいてくれる存在がほしいのだ。
声をかけられたくない日もある
ある日、登記申請の修正が続いて朝からイライラしていた。そんな日に限って、事務員から「昼どうしますか?」なんて軽く聞かれると、返答にすら疲れる。優しさなのはわかっている。でも、何も話さずに、そっとしておいてほしい日がある。誰かと一緒にいたいけど、話したくない。そんな矛盾が、年々強くなってきている。誰にも非がないのに、距離を置きたくなるのがつらい。
事務所に響くキーボードの音だけが救い
その日、唯一ホッとしたのは事務員が何も言わず、カタカタとキーボードを打つ音だけが静かに響いていたことだった。無言の空間。だけど、そこに人がいる安心感。そういう時間が、自分には一番必要なんだと気づいた。誰かが近くにいても、無理に話さなくていい。音が会話の代わりになっているような、そんな空気がありがたかった。
誰とも話さなくても一日は終わる
夕方になって、結局一言も声を出さずにその日が終わった。けれど、それでいいと思えた。仕事は片付き、誰とも衝突もなかった。何も起きなかったことが、逆に救いだった。こんな日が続けば、少しは心も穏やかになるのだろうか。話すことだけが、つながりじゃない。黙っていても、通じ合える関係があれば、それだけで満足できるのかもしれない。
司法書士の仕事に必要なのは「会話力」だけじゃない
司法書士は依頼者との対話も多いが、それ以上に、沈黙に耐える時間が多い職業でもある。書類を読み込み、法令を確認し、細かい数字と向き合う日々。その集中力を維持するには、話さない時間が必要だ。ところが、人は「話すこと」をコミュニケーションの基本と考えているので、静かな時間を好む姿勢を理解してもらえないこともある。
黙々と進める作業に集中できる時間
たとえば相続登記の依頼を受けたとき。膨大な戸籍を読み解き、漏れのないよう整理する作業が続く。そういうとき、電話が鳴るだけでも集中力が乱されるのだ。無音の中で、ひたすら自分の思考と向き合い、黙って手を動かす。その時間こそ、ミスを防ぎ、質の高い仕事につながる。沈黙は、自分にとっては「武器」でもある。
雑談よりも重視される「空気を読む力」
事務所に来るお客さんの中にも、口数の少ない人がいる。そういう方には、こちらも無理に話さず、相手の間に合わせたペースで接する。気まずさではなく、自然な沈黙が流れるとき、自分は「ああ、わかってくれているな」と感じる。司法書士の仕事は、言葉以上に空気を読む力が試される。だからこそ、自分自身にもそういう存在がいてくれたらと強く願ってしまう。
言葉がない関係が心地いいとき
中学生の頃、野球部の練習帰りに友達と無言で自転車を並べて走った記憶がある。何も話してないのに、不思議と満たされていた。言葉がない時間こそ、本当の安心なのかもしれない。大人になると、逆にそういう関係はどんどん減っていく。「話題がないと気まずい」という空気が、沈黙の価値を奪っていく。そうじゃない関係が、今は一番欲しい。
何も話さずに並んで歩ける人のありがたさ
仕事帰り、駅までの道を黙って歩ける人がいたら、それだけで救われる。別に慰めてほしいわけじゃない。ただ、同じ時間を過ごしてくれるだけでいい。実は以前、同業の先輩とそんな関係になれそうだった時期があった。雑談もせず、帰りのコンビニで缶コーヒーを買って、沈黙のままベンチに座る。数分間だけど、あれは確かに癒しだった。
会話を求めない人間関係に救われる
LINEの既読スルーに傷ついたり、電話に出られなかったことで距離を感じたり、現代の人間関係はとにかく「応答」が求められる。だからこそ、無言のままでも関係が続く相手は貴重だ。「何も言わない」ことを、ネガティブに捉えない関係。そういう人と一緒に過ごせたら、もっと肩の力を抜いて生きられる気がする。
沈黙を否定されるとさらに孤独になる
「なんで黙ってるの?」と言われると、言葉に詰まる。別に怒ってるわけでも、無視してるわけでもない。ただ、今は話したくないだけ。それを理解してもらえないとき、どこにも自分の居場所がないように感じる。沈黙は悪じゃない。でも、世の中はそれを避けようとする。だから「黙っていても平気な人」に出会えることは、自分にとって奇跡のようなことだ。
沈黙の共有は贅沢かもしれない
今の世の中、情報も言葉もあふれている。でも、それに疲れている人も多いはずだ。司法書士のような仕事をしていると、なおさら言葉に敏感になる。だからこそ、無理に言葉を選ばず、ただそばにいてくれる人の存在が貴重に思える。沈黙の共有は、意外と贅沢な時間なのかもしれない。
忙しいからこそ、言葉のない時間に価値が出る
毎日が慌ただしく過ぎていく中で、たった10分の無言の時間が心をリセットしてくれる。昼休みに事務員とお互い黙ってお弁当を食べる時間。何も話さないけど、妙に落ち着く。忙しい日常の中で、誰かと何も話さずに過ごす時間は、実はとても大きな価値を持っている。
ただそこにいてくれる存在の大きさ
仕事でもプライベートでも、つながりが希薄になりがちな時代。そんな中で、ただ「そこにいてくれるだけ」の人の存在は、思っている以上に支えになる。話すことが目的じゃなく、存在してくれること自体が意味を持つ。言葉が必要ない関係。それは、信頼の証なのかもしれない。
愚痴すら出ない日を誰かと過ごしたいだけ
ときどき、愚痴すら口に出す元気がなくなる日がある。そんなとき、笑わなくていい、頷かなくていい、ただ一緒にいてくれるだけの人がいればと思う。沈黙が気まずくない関係。それがどれだけ心を楽にしてくれるか。話すのが苦手なわけじゃない。疲れすぎて、もう言葉が出ないだけなんだ。