司法書士としての肩書が持つ世間的な重み
「司法書士です」と名乗ると、たいていの人は「すごいですね」と返してくれます。こっちは日々の業務に追われて目の下にクマ作ってるだけなのに、なんだか勝手に立派な人間扱いされてしまうのが正直つらい。名乗った瞬間に求められるレベルがぐっと上がる感じがして、いつも肩に力が入ってしまいます。別にえらそうにしたいわけじゃないんですよ。ただ、自分ではその肩書に見合う人間じゃないという自覚もあって、それが余計に重く感じてしまうんです。
「先生」と呼ばれる違和感と居心地の悪さ
「先生」と呼ばれるたびに、どこかむずがゆい気持ちになります。仕事上そう呼ばれるのは仕方ないし、敬意を持ってくださっているのもわかります。でも、自分自身は「先生」と呼ばれるほどちゃんとしていないという感覚がずっとあります。例えば、コンビニでおにぎりを買ってるときにも「先生」って声をかけられたりすると、急に自分のふだんの生活が世間に晒されたような感覚になる。プライベートと仕事の線引きが難しい肩書なんだと、改めて感じさせられます。
名刺交換のたびに湧くプレッシャー
名刺に「司法書士〇〇事務所」と印字されている。それを手渡した瞬間、相手の態度が変わることがあります。急に丁寧になったり、逆に構えられたり。「この人は何者なんだろう」という探るような目線が交じることも。正直、ただ地味に書類と格闘しているだけの一司法書士なんですが、名刺の威力ってやたら強いんです。それに負けないようにと、自分の中で何かを装ってしまうこともあり、本音でいられないのが苦しいですね。
地元ならではの「知ってる感」の圧力
地方でやっていると、「〇〇さんの息子さんね」とか「高校のとき野球部だったよね」といった話が仕事に絡んできます。悪い意味じゃないにせよ、「あんたが司法書士?へぇ~」という含みのあるリアクションには、やっぱり気を張ってしまいます。こっちは立派なことしてるつもりはなくて、むしろ毎日なんとか回してるだけ。でも、昔を知っている人ほど、「えらくなったね」と言う。その言葉が逆にプレッシャーなんです。
元野球部だった頃の無邪気さが懐かしい
高校時代、野球しかしていなかった自分が、今や「先生」呼ばわりされるなんて、あの頃の仲間に言っても信じないでしょう。白球を追いかけていたあの頃の無邪気さは、今の自分にはない。代わりにあるのは、肩書きに見合うようにしなくちゃいけないという義務感と、常に誰かに見られているという意識。それでも、ふとバットを握りたくなる夜があります。泥だらけで必死だったあの頃の方が、心はずっと自由だったのかもしれません。
肩書と現実のギャップがつらいときもある
司法書士という肩書があるだけで、「なんでも知ってる」「なんでもできる」と思われがち。でも、実際はそうじゃない。知らないこともあるし、うまく対応できないことだってある。にもかかわらず、期待だけが一人歩きして、それに応えられない自分を責める。ギャップが苦しくて、自分の存在価値まで疑ってしまうこともあります。
頼られることの重さと怖さ
「先生、お願いできますか?」と言われるのは嬉しい反面、ぞっとすることもあります。自分の判断ひとつで誰かの人生に影響するかもしれない。そう思うと、眠れなくなる夜もあります。特に相続や会社設立などの重い案件になると、「本当にこの判断で大丈夫だろうか」と何度も確認する自分がいる。頼られることは誇らしい。でもそれは、常に孤独な責任を伴うことでもあります。
「全部わかってるんでしょ?」という期待
依頼者の中には、司法書士なら何でも知ってて当然、という態度の方もいます。「これはこうなんですよね?」と断定されることすらあります。いやいや、専門外のこともありますし、調べて答えることもあるんです。それを説明しても、「プロでしょ?」と返される。確かにプロだけど、万能じゃない。そんな風に期待されて、それに応えきれなかった時の自分のふがいなさには、何度も凹まされてきました。
分からないこともあると、なぜか許されない
「ちょっと分からないので調べます」と言うと、露骨に不安そうな顔をされることがある。あれは本当にきつい。人間だから完璧じゃないし、むしろ調べてちゃんと確認する方が誠実なはず。でも、肩書があると「すぐ答えて当然」と思われてしまう。そういう場面に出くわすたびに、「司法書士って何なんだろう」と自問自答してしまうんです。
一人事務所の寂しさと責任感
事務員さんがいてくれるとはいえ、基本的には一人。判断も決断もすべて自分。相談相手がいないのは、思っている以上にこたえます。責任を一手に引き受ける毎日は、やっぱり重たい。間違えられないという思いばかりが募って、身動きが取れなくなることもあります。
事務員さん一人に支えられて
唯一の事務員さんが、どれだけありがたい存在かは言葉では言い表せません。何も言わなくても気を配ってくれるし、僕がピリピリしてるときも黙って支えてくれる。とはいえ、負担をかけすぎてもいけないと思っているので、相談もできるだけ控えてしまう。結果的に、自分の中で抱え込んでしまいがちになるのが悩みです。
相談できないことが相談できない
変な話ですが、「相談できないことが相談できない」というのが本音です。事務員さんに愚痴や不安を漏らすのも気が引けるし、周囲の同業者には「弱みを見せたくない」気持ちもある。結果、誰にも言えずに溜め込んでしまうんです。話せたら楽になるのは分かっているけれど、司法書士という肩書が、その一言を言いづらくさせている気がします。
独身司法書士のつぶやき
独身でやっていると、家に帰っても誰かに話すことができません。猫でもいれば違うかもしれないけれど、今のところ話し相手は冷蔵庫の中のビールくらいです。仕事のことも、将来のことも、ぼんやり考えながら一人飯。一日が終わるたびに、心が少しだけ痩せていくような気がします。
誰かに愚痴をこぼしたくてもこぼせない夜
友人に「最近どう?」と聞かれても、つい「まぁぼちぼち」と答えてしまう。ほんとは「大変でしんどいよ」と言いたい。でも、司法書士という肩書が、それを言わせてくれない気がする。愚痴を言うと、プロらしくないと思われそうで。我慢を美徳とするような空気の中で、弱音を吐ける場所がないというのは、結構つらいものです。
モテない人生でも、肩書は一人歩きする
皮肉なことに、仕事では「先生」と呼ばれても、プライベートではモテないし、誰にも頼られない。街コンに参加しても、「司法書士って何する人?」と聞かれて終わり。肩書があっても、何の保証にもならないと実感します。むしろ、肩書に期待される分、中身が伴ってないとバレたときのがっかり感はきっと大きいんでしょうね。そんな現実に打ちのめされながら、また一人でカップ麺をすする日々です。
それでも続けている理由
そんな毎日でも、この仕事を続けているのは、誰かの役に立てたときの小さな喜びがあるから。心からの「助かりました」「ありがとう」の言葉は、ほんの一瞬でも、肩書を超えて自分が報われたような気持ちになります。それがなければ、とっくに辞めていたかもしれません。
誰かの役に立てたときの小さな救い
ある日、相続の相談で来た女性に「やっと安心できました」と言われたことがあります。その瞬間、自分の存在がほんの少しでも意味を持てたような気がしました。司法書士という肩書は重い。でも、その重さが誰かの不安を軽くできるなら、少しは意味があるのかもしれません。
元野球部の粘りと踏ん張りが活きている気がする
高校時代、どれだけ負けていても最後まで諦めなかったあの精神力が、今の仕事にもつながっている気がします。走り込みもノックも地味な練習も、すべてが今の自分を支えている。泥だらけだった頃の自分が、今の僕を見たらどう思うだろう。ちょっと情けなく見えるかもしれない。でも、少しだけ誇らしいと思ってくれるかもしれません。