それでも続けている理由がある

それでも続けている理由がある

辞めたいと思わなかった日はない

司法書士として独立してから、もう何年が経っただろうか。毎日が戦いのようで、正直「辞めたい」と思わなかった日は一度もない。地方でひとり事務所を構え、たった一人の事務員となんとかやりくりしているが、全てがうまくいく日は珍しい。人に言うほどの大事件ではないけれど、地味に心を削るような出来事が毎日押し寄せる。電話、書類、不備、修正、急ぎの案件、夜中のメール…。それでも、なぜ続けているのかと自問する日々だ。

朝起きた瞬間に襲ってくる現実

目覚ましが鳴る前に目が覚めることが増えた。それは自然な早起きではなく、今日の仕事が気になって眠れなかった名残。寝ていても、電話が鳴る夢を見たり、補正依頼に追われている夢を見たり。現実と地続きのような悪夢にうなされる。布団の中でため息をついて、何とか気力を振り絞って起き上がる。毎日同じルーティンに見えるが、同じ日は一つとしてない。その分、終わりの見えない重さを感じる。

夢の中では自由だった

夢の中でだけ、別の人生を歩んでいることがある。教師だったり、居酒屋の店主だったり。司法書士ではない自分の姿が、意外と自然に存在していたりして、朝起きた瞬間にその夢が消えていくと同時に、なんとも言えない虚しさが押し寄せてくる。「ああ、今日も登記だ」と思うと、胸の中に小さなため息が浮かぶ。でもそれを誰にも話せず、ただ黙ってスーツに着替える。

現実は書類の山と電話の嵐

出勤してパソコンを開くと、メールとFAXの山。最近ではFAXで届いた資料をスマホで撮ってLINEで送ってくるお客様もいて、時代の混在がもはやカオス。事務員と二人で「これは昨日処理済み?いや、微妙に違う案件か?」と確認しながら、処理しても処理しても書類の山は減らない。電話も休む間もなく鳴る。なぜか月曜の午前中と土曜日の夕方に集中する傾向があるのも謎だ。

「もう限界かも」と思った出来事

いくらやっても終わらない書類、何度送っても戻される補正通知。そんな日々に、限界を感じる瞬間があった。あの日、たまたま事務員が風邪で休んでしまい、業務を一人で回す羽目になった。予定していた登記申請が3件重なり、急ぎの依頼で現場対応もしなければならず、頭が真っ白になった。

事務員の突然の休養

うちの事務員は真面目でしっかり者だが、ある日突然「少し休ませてください」と言ってきた。疲れが溜まっていたらしい。正直、焦った。彼女がいなければ、書類の整理も郵送もできない。ワンオペでは限界がある。結局、その週は徹夜で処理した。家に帰ると、台所に一人分のカップラーメンがそのままになっていて、「俺、何やってんだろう」としみじみ思った。

お客様の無茶ぶりと土日返上

「今日、やっぱり登記お願いします!」という無茶な連絡が来ることもある。土曜の午後にそんな連絡が来たときは、ちょっと泣きそうになる。でも断れない。地方では評判がすべてだから。「あそこの司法書士は頼んでも無理って言われた」なんて口コミが立てば、あっという間に信用が崩れる。土日?何それ、美味しいの?という世界だ。

それでも辞めなかったのはなぜか

あれだけ「辞めたい」と思っていたのに、なぜか今もこの机に向かっている。結論から言えば、「なんだかんだで、嬉しい瞬間があるから」。それは本当に些細なことだけど、その一つが、時々訪れる依頼者の「ありがとう」だったりする。お金でも肩書きでもない、心の奥にじんわり届くひと言が、意外と効くのだ。

依頼者の「ありがとう」が刺さった日

ある日、相続登記を担当した女性が、手続き完了の報告を聞いて泣き出したことがあった。もう何年も放置していた実家の名義をやっと整理できたとのこと。「これでやっと親に報告できる」と彼女は言った。そのとき、自分の仕事って、こういう形で誰かの人生の一部に関われるのかと思い知らされた。その涙は、心のどこかに静かに沁み込んで、今も残っている。

登記が完了した瞬間の空気

登記が完了して、法務局からの通知が届く。その瞬間、依頼者に伝えると、たいていの人がほっとした声を出す。「ああ、これで終わったんですね」と。それだけの言葉なのに、こっちもなぜか肩の荷が下りた気がしてくる。書類の山を越えた先にあるこの一言。それがあるから、またやろうと思えるのかもしれない。

涙を流した依頼者と握手した話

「本当にありがとうございました」と言って、握手を求めてきた老夫婦がいた。登記の話なのに、まるで人生相談が終わったような雰囲気で。自分の手をぎゅっと握るその手に、何か重いものが込められている気がした。そんな時、自分の存在もまんざらじゃないな、と思える。そんな瞬間は月に一回あるかないかだけど、それで充分だったりもする。

孤独だけど自由でもある

一人で仕事をしていると、誰にも怒られない代わりに、誰も助けてくれない。でも逆に言えば、全てが自分次第ということでもある。好きなようにスケジュールを組めるし、音楽をかけながら書類も作れる。昼休みが15分のときもあれば、2時間休んで温泉に行く日もある。そんな自由さが、なんだかんだで気に入っている自分がいる。

誰にも指図されない気楽さ

会社勤めをしていた頃は、上司の顔色を見ながら行動していた。でも今は、誰にも報告も相談もいらない。これは責任でもあるけど、自由でもある。「今日の午後は、気分が乗らないから電話対応だけにしよう」なんて決断が許されるのも、自営業ならではだ。これがなかったら、たぶん続いていなかったと思う。

自分の責任で完結する仕事

この仕事は、最終的には全部自分の責任。ミスをすれば自分のせいだし、成功しても特別に称賛されることはない。でもそれが逆に、スッキリしている。責任転嫁もないし、勝手な正義もない。淡々と、自分で始めて自分で終わらせる。野球で言えば、ピッチャーが一人で完投しているような感じだ。

元野球部の粘りが効いている

思えば、あの真夏のグラウンドで、声を張り上げていた自分。高校時代、野球部で鍛えられた根性は、今の自分に直結している。どんなに疲れても、負けても、ボールを追いかける。それが染み付いているから、たぶん今日も机に向かえているのかもしれない。

耐えることしか知らなかった10代

練習中にボールが顔に当たって鼻血を出しても、「走れ!」と言われるような環境だった。いま思えば非人道的だけど、その理不尽さの中で、耐える力だけは鍛えられた気がする。社会に出てからのほうが、案外優しいじゃないかとさえ思えることがある。おかげで、多少の無茶な依頼にも心が折れにくいのは事実だ。

炎天下のノックが今も生きている

真夏のグラウンドで何十本もノックを受けていたあの時間は、今となっては一種の瞑想だったのかもしれない。無心になって動き続ける。仕事でも、同じように無心になって書類を処理していると、ふと心が軽くなる瞬間がある。あの頃の練習が、精神的な持久力を支えてくれている。

メンタルだけはしぶとくなった

野球部で鍛えられたのは、結局メンタルだ。試合でエラーしても、すぐに切り替えなきゃいけなかった。今も、登記ミスが出たとき、どれだけ落ち込んでも、「やるしかない」と立て直すのが早くなった気がする。しぶとさだけは、ちょっとした特技だと思ってる。

モテなくてもこの仕事に誇りはある

誰かに認められたい気持ちはある。でも、モテないことに関してはもう諦めている。仕事に全振りしている自分は、やはり他人から見れば「地味なおじさん」だろう。それでも、自分のやっていることにだけは誇りを持っている。誰にも言われなくても、胸を張って「続けてるよ」と言える自分が、ほんの少しだけ好きだ。

仕事は人生のパートナー代わり

気づけば、仕事が一番長く付き合っている存在になっていた。結婚もしていないし、彼女もいない。でも、「今日はこの案件をどう片付けよう」と考えている時間が、意外と充実している。世間から見れば寂しいかもしれない。でもこの関係性、案外悪くないと思ってる。

優しさと愚痴のバランスで今日も乗り切る

性格は優しいとよく言われるが、愚痴も多い。それでも、このバランスでなんとか保っている。「誰かのために」という気持ちが、仕事の原動力になる。文句を言いながらでも、結局手を抜かずにやるのが、自分らしいのだ。だから今日も「辞めたい」と思いながら、それでも続けている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓