この仕事の書類は片付くのに心は片付かない
司法書士という仕事は、やるべきことが明確である。登記の申請書類を作成し、不備がないように整え、法務局へ提出する。その流れ自体はルーチン化されていて、ある意味で“片付く仕事”だ。机の上の書類が減っていくのを見ると、それなりに達成感もある。でも、それとは裏腹に、心の中に溜まっていくものがある。それが「寂しさ」だ。どれだけ書類を片付けても、心の中はちっともスッキリしない。むしろ、黙々と作業するたびに、ぽっかりと穴が開いていくような感じすらある。
日々積み重なる書類の山
たとえばある日の午後、机の上には6件分の登記申請書類。ひとつずつ目を通し、誤字脱字やミスがないかをチェック。ミスがあれば修正し、関係書類を揃えて綴じていく。まるで積み木を正確に重ねていくような作業だ。だが、この積み木、完成しても誰も拍手してくれないし、一緒に眺めてくれる人もいない。昼休みを過ぎたころには、椅子の背にもたれながら「誰かと話したいな…」とぼんやり思う。でも、すぐに次の書類が目に入ってきて、現実に引き戻される。こんな毎日が続くと、書類を片付ける手は止まらないけど、気持ちはどんどん沈んでいく。
終わりの見えない「完了処理」
登記完了証を受け取っても、それで一日が終わるわけじゃない。次から次へと案件は入ってくるし、電話もメールも止まらない。事務員も一人だけなので、ちょっとでも僕の手が止まれば、全体が滞る。だから、今日の仕事を“終わらせる”というより、“流しきる”ことが目標になる。だが、書類を処理する一方で、自分の気持ちや孤独感を処理する時間はない。心の中に「完了」は訪れない。
達成感より先に来るのは空虚感
業務が終わる18時すぎ、椅子から立ち上がったときに感じるのは、「やったぞ!」ではなく「今日も何もなかったな…」という感覚だ。昔は「忙しい=充実している」と思っていたけれど、今はその考えがむなしく感じる。誰かに話しかけられることもなく、帰り道も独り。事務所の電気を消してシャッターを下ろす瞬間、ふと「このままでいいのか?」という思いが頭をよぎる。
誰とも話さず終わる一日がある
実は、誰とも会話せずに一日が終わることも珍しくない。依頼者とのやり取りはメールや電話で済んでしまうことが多いし、対面相談も減った。対人ストレスは減ったが、それと引き換えに「生の声」が事務所から消えてしまった。
事務員との会話は必要事項のみ
雇っている事務員さんは真面目で有能だけれど、お互いに無駄口を叩くタイプではない。たとえば「この書類、提出は今週中で大丈夫ですか?」とか、「この印鑑証明、依頼人に催促しておきますね」などの業務会話が中心になる。もちろんそれは悪いことではない。でも、雑談って意外と大事なんだと、最近気づくようになった。ふとしたひと言が、心をほぐすクッションになる。今はそれがなく、ずっと背筋を伸ばしている感じがする。
電話とメールが唯一の対話手段
依頼者からの電話も、メールも、必要事項のみのやり取り。件名は「登記申請書の件」、本文は「添付ファイルをご確認ください」など、機械的な文面ばかりが続く。チャットやLINEで人とやり取りする若者たちの会話量に比べたら、僕の会話量は極端に少ない。言葉を使う職業のはずなのに、会話がない。そんな矛盾に時々苦笑する。
話し相手がいない昼食時間
お昼は近くのコンビニで買ったおにぎりと味噌汁。事務所のデスクで一人食べるその時間が、実は一番寂しさを感じる瞬間かもしれない。ラジオの音を小さく流しているけれど、それがかえって静けさを際立たせる。ふと、「昔は部活仲間と騒ぎながら食べたなあ」と思い出す。今は話し相手がいないどころか、笑い声も聞こえない。
寂しさは書類のミスより厄介
登記のミスは訂正すれば済む。法務局に怒られるのも数分のことだ。でも、心にポカンと空いた空洞のほうが厄介で、何をしても埋まらない。書類は処理できても、自分の感情は処理できないという現実に、日々直面している。
訂正はできるが感情の処理はできない
たとえばミスを見つけたら「ここ直せばいい」とすぐ対処法がわかる。登記原因がズレていれば、修正案を立てればいい。でも、「寂しい」と思ったとき、それをどう直せばいいのか分からない。相手がいるわけでもなく、自分の中でくすぶる感情。処理すべきファイルが目の前にないから、何も手が打てないのだ。
エラー表示があれば楽なのに
パソコンならエラーコードが出る。「入力ミスです」「対応が必要です」と教えてくれる。でも、心の不具合は誰も教えてくれない。「そろそろ限界です」とサインを出してくれるものがあれば、少しは対処もできるのに、と思う。気づいたときには、もう深い穴に落ちていることが多い。
野球部だったあの頃は賑やかだった
学生時代、野球部にいた。グラウンドで泥だらけになりながら、笑い合ったあの頃。声を出すことでつながれる仲間がいた。今、その声を出す場所がない。
声を出せば届いた仲間の存在
「ナイスバッティング!」「ここ抑えよう!」と声を出せば、誰かが応えてくれた。応援され、応援した。人とのつながりを当たり前のように感じていたあの頃が、今ではまるで異世界の話のように思える。司法書士になってから、そんな“届く声”を出す場面はほとんどない。
今の声はパソコンに吸い込まれていくだけ
「はい、添付ファイル確認しました」「登記完了しました」といった文字が、画面に並ぶ。声ではなく、文字がやり取りの中心。パソコンに向かって何かをつぶやいても、ただ空気に消えていくだけ。部活の声出しは、思っていた以上に自分にとって大事な“対話”だったのだと今さらながら感じる。
それでも仕事があることに救われている
こんな生活でも、仕事があることに少しだけ感謝している。依頼者がいて、自分を必要としてくれている人がいる限り、まだ役割があると感じられる。それが、寂しさをぎりぎりのところで支えてくれている。
書類の山が生きる理由になることもある
日々の業務は機械的だが、それでも「これが自分の仕事だ」と思えるものがある。書類の山を前にして、「今日もやるか」と思える。誰かの役に立っている、社会とつながっている。そう思える瞬間が、少しだけ前を向かせてくれる。
依頼人の「助かったよ」が一番沁みる
たまに、依頼人から「ありがとう」「本当に助かりました」と言ってもらえることがある。そのときだけは、本当に救われたような気持ちになる。ああ、今日はこの一言のために頑張ったんだなと、自分を認められる瞬間だ。