その日は普通に始まった
朝の机に座って、いつものようにコーヒーを淹れる。豆の香りに癒されながら、今日も淡々と業務をこなす日になる…はずだった。地方の司法書士事務所、派手さはないけれど責任は重い。事務員の彼女も元気に出勤してくれて、特に大きな予定もなく、穏やかに時間が流れていく、そんな午前中だった。ここまでは、平和そのものだった。
朝のルーティンに救われる
独身男性の朝は静かだ。誰も起こしてくれないし、朝食を作ってくれる人もいない。それでもこの仕事を続けられているのは、「同じことの繰り返し」が意外と安心材料になっているからかもしれない。湯を沸かし、豆を挽いて、お気に入りのマグに注ぐ。その香りが、昨日の疲れと今日の不安を一瞬だけでも中和してくれる。ルーティンが崩れると、一気にペースが乱れるタイプだ。
相変わらずの独り言とコーヒーの香り
「あ、今日は法務局に寄るんだったっけ」なんて言いながら、PCの前でひとりごとをつぶやく。事務所には僕ひとり。事務員さんはまだ来ていない。聞いてる人がいないと、逆に話したくなるものだ。そんな自分の姿に苦笑しながらも、これが一人事務所の日常だ。誰にも迷惑をかけない分、誰にも助けられない。コーヒーの香りが唯一の相棒だ。
事務員さんの「おはようございます」に癒やされる
「おはようございます」と、明るい声が聞こえてくる。それだけで、なんだか空気が変わる気がする。事務員さんは若いけれど、しっかり者だ。僕が何をうっかり忘れても、そっとカバーしてくれる。最近では、僕がプリントアウトを忘れることを見越して、あらかじめ準備してくれていることすらある。ありがたいを通り越して、少し申し訳ない。
最初の相談は意外と順調だった
その日の最初の相談者は、年配の男性。相続の相談だった。資料も揃っていて、話もスムーズ。久しぶりに「説明が通じてる感覚」があって、こちらもノリに乗っていた。少し専門用語も混じるけれど、表情を見ながら調整していけば問題ない。と思っていた。まさか、あんな一言で崩れるとは思いもしなかった。
登記内容を噛み砕いて説明する時間
「この登記簿を見ると、お父様の名義ですね。これをお子様の名義に移すには…」というように、なるべくゆっくり、丁寧に。スライドのように頭の中で展開しながら説明していく。相手もうなずいてくれて、これは理解してもらえているな、と思っていた。手応えのあるやり取りというのは、どこかスポーツにも似た感覚がある。
自分の中では完璧な流れだった
説明には順番が大事だ。特に相続や名義変更の話は、一つ前提が崩れると、全部が意味不明になってしまう。だからこそ、丁寧に順序立てて話した。相続関係図、必要書類、登記申請の流れ、かかる期間、費用の目安…。一通り話して、「よし、伝わったな」と思った。その瞬間だった。
目の前の依頼者の表情が気になり始める
なぜか、突然相手の顔が曇った気がした。あれ、なんか伝わってない?と思って見つめ直したときだった。あの一言が飛び出した。「先生、これって…何の話でしたっけ?」
その一言で崩れる集中力
「何の話でしたっけ?」。その破壊力たるや、あの日以来トラウマになりかけている。こちらは頭をフル回転させて構成してきた説明が、相手にはまったく届いていなかった。いや、途中までは届いていたはずだ。何かのタイミングで糸が切れたのだろう。それが悔しくて、情けなくて、ちょっと恥ずかしかった。
「何の話でしたっけ?」の破壊力
説明中に「話が見えません」と言われるのは慣れている。でも、「何の話でしたっけ?」は別格だ。まるで、自分の存在意義ごと否定されたような気分になる。「ああ、自分ってこんなに伝えるの下手だったんだな」と、自覚させられる一言。小学生の頃、練習してきた作文を音読して誰も聞いてなかったときのあの感覚が蘇った。
一瞬、時間が止まった気がした
「え?」と返す声が裏返った。パニックになりそうなのをこらえて、「えーと、ですね、さっきまでは…」と巻き戻しを始める。相手は申し訳なさそうな顔をしている。悪気はないのはわかる。わかるけど、内心ではけっこうズタボロだ。気を抜いたら、笑われた気がして落ち込みそうだった。
自分の声がどこかへ行ってしまった
それまでしっかりしていた声が、急に小さくなる。喉が詰まる感じというか、言葉がうまく口から出てこない。説明って、結局「自信」なんだと痛感した。ひとつ崩れると全部が崩れる。心がちょっと折れた瞬間だった。
こういうとき誰かと笑い合いたい
相談が終わったあと、事務所に戻る足取りは重かった。ひとりで全部抱えている感覚が強くなる。せめて、誰かに「あれはキツかったね」って笑い合えたら。そう思うけど、独身のひとり暮らしでは、その相手もいない。結局、またコーヒーを淹れて、ひとりごとで乗り越える。
愚痴っぽいけどそれでも続けている理由
たまに、「先生のおかげで助かりました」と言ってくれる人がいる。その一言で、救われることもある。目立たないし、モテないし、楽でもない。でも、自分にしかできないことがある、と思える瞬間がたしかにあるから、なんとか続けていられる。
最後に今日の自分へひと言
今日の自分には、こう言ってあげたい。「よく頑張ったな」。誰にも褒められない日も、自分で自分を労うしかない。それでも、次の日もまた依頼者の前に立つ。何度話が脱線しても、何度「何の話でしたっけ?」と言われても、また説明を始めるしかないのだ。